チャーリー・カウフマン『もう終わりにしよう。』

チャーリー・カウフマン監督『もう終わりにしよう。』を観る。なんと悲しい映画だろう。まるで近年の高橋源一郎の小説のようだ。チャーリー・カウフマンという人物に関しては不勉強にして知らなかったのだけれど、これは是非彼が関わった映画(特に『マルコヴィッチの穴』)を観てみたいと思わされた次第である。だが、『もう終わりにしよう。』自体は私はそう高く買えないとも思った。そんなに難しい次元の話ではなく、単純に映画として事務的に評価するならグダグダなのだ。私のような素人でもわかる。30分切ってもっとタイトに展開させればウェルメイドになる。だが、ところどころ光るものはあった。

設定自体は(少なくとも表面上は)さほど凝ったものではない。6週間前に知り合った彼と彼女が、彼の家族に彼女を紹介するために車で家に連れて行く。だが、すんなりとことは運ばない。帰り道はど田舎なのでラジオの電波もロクに入らず、雪が降りそうとのことで早くも帰郷の道行きは暗雲がたなびいている。果たして帰った先に居た彼の家族とは、一見すると普通の人たちでありながら実はどこかチューニングが狂っているかのような人たちだったのだ。彼女にとって長い一夜が始まる……というのがプロットである。

ネタを割ってしまうが、これは終活映画なのだろうかと思った。少なくともこの映画を観ていながら、全体に漂う相当にくたびれ果てた感覚(例えばアシッド・フォークを聴いている時に感じる、このまま眠ってしまいたくなる感覚)にやられてしまうかと思った。先に私は「グダグダ」と書いた。丁々発止のやり取りや緩急のついたドラマ性を求めると肩透かしを食らうだろう。あるのは息苦しい食卓での噛み合わないお喋りを延々と聞かされる展開だ。この映画からデヴィッド・リンチを思い出す人は多いだろうが、確かに『イレイザーヘッド』的ではある。

だが、注意深く観ればそのグダグダで噛み合わない会話が(従って、どの台詞も等しく重要に感じられず念仏のように頭から抜けていくのだが)実は後半に反復されて現れたりするから見過ごせない。そして、ノイズなのかシグナルなのかわからない会話だけではなく不意に現れる妙な人々(彼らが老人、ないしは年齢を超越した存在であることに留意しよう)も何気にいい味を出している。もう少し「濃く」描写してあってもよかったかなとも思うが、そこはもう好みの問題なのだろう。その意味ではキャラの立たせ方において、やはり先達には及んでいない。ここも痛いミスだ。

私は新作が出ればまめに映画館に通うというシネフィルではないのでボロがでてしまうのだけれど、この映画が指し示しているものは実は『ラ・ラ・ランド』や『ジョーカー』とも近いのではないか、と頓珍漢なことを書きたくなる。もちろんスジは似ても似つかないが、過去の古き良きアメリカの頃のポップカルチャーのソースを参照して作っているところからそう考えてしまうのかもしれない。この映画はミュージカルが隠し味になっていることを見落とすと謎(!?)を解けなくなる。過去の栄光がもう通用しない、病んだアメリカが見せる綻びだらけの人々の暮らし……そんなことを思ってしまうのだった。

そして最後の悪ふざけすれすれのオチのつけ方のぶっ飛びようはフェリーニ、もしくはキューブリックではないかとさえ言いたくなってしまうのだった。いや、この映画は奥が深い。映画のリファレンスだけではなく書籍においてもポストモダン作家デヴィッド・フォスター・ウォレスやカルト的な人気を誇る思想家ギー・ドゥボールが台詞で引用されたり、マニア心をくすぐる仕掛けが施されているのだった。それらはしかし、リンチやデヴィッド・ロバート・ミッチェルのように「批評家ホイホイ」になり得ているか。それこそ観ている人に前半のダルい展開で「もう終わりにしよう。」と思わせないためにもタイトに作っていればと思う反面、そうすればこのダルさでしか生み出せないグルーヴが失われるので難しいとも思ってしまうのだった。

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