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ジム・シェリダン『ローズの秘密の頁』

ジム・シェリダン監督『ローズの秘密の頁』を観る。ジム・シェリダンという監督に関してはなんの知識もなく、予告編とルーニー・マーラ目当てで観たようなものだったのだけれどそこそこ楽しむことが出来た。傑作だとは思わないが、ソツがなく綺麗に纏まっておりイヤミなところもない、小粒だが良品だと思わされた。だが、読書においてページを次々とめくってグイグイ読んでいくような引き込みの強さが、この映画には欠けているような気がした。この映画が(ネタを割らない程度に書けば)「引き寄せ」をテーマに成り立っていることを思えば皮肉なものだと思う。

精神病院が壊されることになる。患者たちは転院を迫られる。40年間この病院で過ごしてきた、自分の赤子を殺したことが原因となって入院しているローズもまた、慣れない事態にパニックになりながら片時も手放したことのない聖書を守ろうとしていた。だが、聖書は単なる聖書ではなく、実はローズの手記だったのだ。彼女の手記はでも謎が多い。赤子は本当に存在したのか? 殺したのだとしたらなんのために? 父親は誰なのか? 彼女はゆっくりと半世紀前の記憶を語り始める。それはまさに数奇な人生だった……。

ミステリの味つけがなされている。それは上に書いたプロット整理から容易に見て取れるだろう。オーソドックスな製作者なら、これだけの旨味のある謎が揃っているのだから謎解きに淫した作りのものを撮るはずだ。だが、この映画はそうはならない。旨味といえばこの映画は第二次世界大戦の最中のアイルランドとイギリスの関係を下敷きにした、許されない恋愛を描いた映画としても語れるはずなのだ。そのようなポリティカルな撮られ方はでも、選ばれることはない。結果としてルーニー・マーラの魅力をストイックに押し出した、彼女の奮闘によって観られるべき映画となっているように映る。

なるほどそれはそれでひとつの決断ではあるだろう。だが、そう考えてしまうとこの映画はせっかく旨く料理出来る余地があったものを台無しにしてしまったとも受け取れる。実際この映画では一応謎に種明かしはされるのだが、それとてスリルを伴ってのものではなく「今更?」と観客に既視感を与えるような、凡庸なオチと言っても過言ではないものなのだ。つまり、ミステリとしては三流。ポリティカルな旨味もなく、ラブ・ストーリーとしても肝腎の男優の魅力が立っていないため、彼女のひとり芝居のようにも感じられる。

そういうことを言い出せば、この映画はミステリで批評家がクリシェのように使う文句であるという「人間が書けていない」があてはまるのだ。ルーニー・マーラ/ローズとはどういう女性なのか? 彼女は何故あの男性に惹かれるのか? 彼女の魔性の女ぶり――人は彼女をニンフォマニアとまで呼ぶのだ!――が伝わってこない。結果としてルーニー・マーラのスッピンの魅力だけが浮き上がる作りとなっている。逆に言えば彼女のオーラがなければ、この映画はそれこそ惨敗で終わったのではないか。

とまあボロクソに書いてしまったが、しかしこの映画は繰り返すがソツがない。「人間が書けていない」しドラマとしても中途半端だが、映像の撮られ方において安定しているのだ。カメラの据え方が堂に入っており、ただ事物を映すだけで泣く子を黙らせるだけの迫力がある。それ故に、この映画にもうひとりカリスマ的な魅力を備えた男優が出ていたらと(いや、登場する男優が大根というわけでもないのだけど)ないものねだりをしてしまう。この映画、製作者陣が致命的な「ミスキャスト」で選ばれたところで成り立ったような、どこかチグハグなところがある……。

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