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鴨川デルタものがたり(短編)上

下鴨神社から流れ出る小川は干上がり、その周りに広がる糺 (ただす) の森は蝉しぐれに沈みかけていた。僕と彼女はその蝉しぐれから逃れるように横道に逸れ下鴨本通りに出ると、彼女に連れられるがまま何かの研究施設みたいな不思議な響きの名を冠した洋食屋に入った。

学校の教室を大きくしたようなだだっ広い空間に疎らにテーブルが並んでおり、クーラーから出る湿った冷気と厨房から漂う優しい脂の香りが、熱で虚ろになりかけていた僕らの生気を取り戻した。

遅めのランチは形よく反り返ったエビフライ、半透明のソースのかかったハンバーグ、オーロラーソースをまとった付け添えの野菜、時間を掛けてゆっくりと食べていく。会話はあまりないのに食べ終えるのが怖くて永遠に咀嚼していたいような、それが二人で最後のランチだった。

進学した僕は夏休みが終わればナイル川のほとりへと旅立つ。ひとつ年上の彼女は見合いで結ばれた人のもとへ嫁ぎ上京する。学生同士の恋なんてそんなものである。チャプターごとに違う物語のように何もかもが切り替わってしまうのだ。

それなのに、僕は彼女が最後の一口を食べ終える直前に、「あ、スープも飲みたかったの忘れてた」と言って追加してしまったり、最後のグラスが空になる前に次のワインを頼んでしまったり、それでも店の息子とおぼしき人は何もかもが判っているかのようにレジのあたりから僕と目を合わし、とおにランチの時間など終わっているのに嫌な顔ひとつせずオーダーを取ってくれた。

「さっき、スープも飲みたかったって、この店来たことあるの?」と彼女が不思議そうに聞いたが、僕は「ううん、きょう来たんが初めてやよ。スープ好きやねん。」と答えた。

結局、その食堂を出たのは、糺の森にヒグラシが鳴くような時間帯だった。
レジをするときに店の人が僕に何かを言いかけたようだったが、その前に彼女が「ごちそうさまでした」と言ったので、それで店を出た。
僕らは一緒に観た全部の映画のおさらいをしつつ、下鴨通りから葵公園を抜けて出町柳のバス停へ向かおうとして高野川にかかる小さな橋を渡った。そのとき急に彼女が、
「ほら、これ見て。こんなとこから松の木が生えてるし。」と言った。
石の欄干の隙間から松の苗木が生えていたのである。
「健気 (けなげ) やなぁ、なんでこんな場所を選んでしまわはったんやろ。」
「松の木に敬語使わんでええ。こんなとこやと育たへんやろし、仮に育って大きなってきたら橋の石が割れるって京都市に引っこ抜かれるわ。」
「またぁ、すぐそんなイケズなこと言う。なあ、何年かしたら見に来ようよ。この松がどうなってるか。そして私らもどうなってるか。」
「京都の人にイケズって言われたら終わりやな。まあええよ。見に来よ。でも二人でな。お互いに相手連れてきたりはせんとこ。」
「そらそやわ、そんなん別の人とよう来いひんし。」

人生とはそんな若者のセンチメンタリズムなど一瞥だにすることもない。去る者日々に疎しというわけではないが、約束などただの思い出に、思い出などかすかな記憶に化していく。

ただ、それから四半世紀もの時が過ぎたとき、その高野川に掛かる小さな橋をまた歩いて渡ることがあった。するとなんと、その欄干の石の隙間には、松の若木がいきいきと育っていた。
しかし25年という時を考えれば、それがあのときの松の木であるはずはなかった。それでも僕はその松を写真に収め、いつか彼女に再会したときに見せてやろうと思っていたのだが、年月はそれを思い出させることもなく飛ぶように過ぎていった。

さて…、人生も半世紀をとおに過ぎた数年前の正月、京都は大雪に見舞われた。市内の交通は地下鉄以外すべてマヒし、正月二日であるにもかかわらず観光客の足は途絶えた。

僕は靴に染み入る冷たい水を気にしながら雪の京都という滅多とない風景を追いかけてカメラと三脚を担ぎ、南禅寺界隈から法然院の方に向けて哲学の道を歩んでいた。
冷泉天皇陵のあたりで、ふと疎水の護岸を見ると、石垣の隙間から松の苗木が出ていて、それに重そうな雪が乗っかっていた。俄かに、とおに忘れかけていた記憶が蘇り、そうだ、あの高野川の橋まで行ってみよう、と一瞬考えた。
そして手にもったスマホの地図を2本の指で広げようとしたとき、はっと呼吸が止まりかけた。
そんなことをしても何もならないんだ!何の意味もないんだ!そこに松の木があったとしても、それをカメラに収めたとしても。

いったい誰に見せようというのだ。
前月の初めに彼女の息子から喪中のはがきが届いていたのだ・・・

冬の日は短く、すみれ色に染まりゆく空、冷泉天皇陵の真上に半月よりもすこし丸い月が浮かび出た。その月が上弦の月なのか下弦の月なのか、いくら目をこらして見ようとしても焦点が合うことはなく、ただただ流れてしまい、僕は三脚を倒したままその場にしばらくしゃがみ込んでしまった。

「中」につづく
https://note.com/marco_jp/n/nbaac6a20e3f9?fbclid=IwAR0IHOdLZQ6evBgH8BLd4avM9uAhFANy2XlDXKdhSp07fbLteGNyVz3OYyA

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