京の裏山
およそ古 (いにしえ) の都というものは後に深山を控えている。
それが風水に依るか防衛的見地なるものか、奈良の奥山にしても然り、飛鳥の吉野山にしても然り。
しかし京の北山ほどに深山幽谷なものはないと思う。
21世紀の今に到っても、人口150万の大都会京都の裏山は二筋の川に沿った猫の額ほどの土地を除きほとんど宅地開発されることはなく、鞍馬や大原の集落限界のさらに奥に平安京の歴史といく年も変わらない時間を刻んだ、百井、八丁、雲が畑、真弓善福といったような、いわゆる落人の集落が清流沿いにごく疎らにあるのみという。
ノルウェーの森に出てくる花背などというのは、この深山幽谷のごく入口に過ぎない。千数百年に渡ってこの鬱蒼たる山々を守り抜いているのは先人から伝わる都人の知恵に他ならず、これにより京都はいずれを掘っても清水の湧き出る、まさに水に浮かぶる町であり、逆手を取れば冬の底冷えはこれが所以であるとも言える。
そうした左京区ももはや福井県との境に至るかというあたりに、久多 (くた) というごく小さな集落がある。関西唯一の高層湿原である八丁平の裏手にあるひなびた村で、コンビニはおろか商店さえもなく、ここへ至る公共交通機関もなく、これがまことに京都市かと思われる場所に赴いた。
ここへ至る道はいかにも心細い一車線の道が、実は踏み外せば命もろとも助かるまいと思うほどの急峻な谷を眼下に山肌を這っている。にもかかわらず、昼なお暗い北山杉に覆われてその恐怖さえ感じ得ないといった類で、これがいみじくも羊腸のようにくねっている。
骨折から癒えたばかりの右肩を庇い、ほとんど左手でハンドルを握りつつも、そのような酷道・腐道を辿っていったのは、夏のごく一時期にだけ休耕田を淡い紫で染め上げるという「北山友禅菊」をぜひ一度見てみたかったからである。
朝露を帯びた菊を見たいがために、まだ東雲 (しののめ) たなびく夜明け前に神戸を出たが久多にたどり着いたのは7時を回っていた。その甲斐むなしく、友禅菊はとおに見ごろを過ぎており、紫陽花や躑躅 (つつじ) もそうだが、この手の花は桜や椿のように散り際を知らずして、ただ朽ちるままに佇む醜女 (しこめ) の如し。
しかしそこよりもと来た道を引き返す気には到底なれず、まさに鬼や天狗が跋扈 (ばっこ) するかに思える京の北山をさらに分け入り、羊腸はおろかすでに獣道に毛の生えた程度の道を辿ることになる。幸い、朝も早うからそのような道を通る物好きなどおるわけもなきゆえ対向車に怯えることはなく、ただひたすらに不規則なカーブに悩まされつつも小気味良くハンドルを切れば、なんとなく名前もおどろおどろしい佐々里峠 (ささりとうげ) も超えて、半時もしないうちに癒しの里、美山ににじり出た。
美山は読んで字の如し。瑞々しい京野菜や旨味の強い京地鶏で有名なのも、他には滅多とない清らかな水と空気の賜物。ここにはずっと来てみたかったが、なんとはなくとても遠い印象があり、訪れたことがなかった茅葺きの保存集落がある。
平日の午前、観光客もおらず、折りしも晴れ上がった空のもと清流に鮎の友釣りに出かけようとする年寄りと軽く会釈を交わす程度である。ここの茅葺屋根の家は白川郷のように数層に重なっているものではないが、苔むした均衡のいい屋根の落ち着きには目を見張るものがある。
かつて郡上八幡を訪れたときにも感じたが、水の清らかなところに咲く百日紅 (さるすべり) の花は驚くほどにたおやかで鮮やかな色でひときわ目立っている。まさにそういった山里にひと夏の居を構えて仕事をすれば指先も軽やかに活字が踊り出てきそうにも思えるが、それはあくまでも夢空言に過ぎず、おそらく現実には三日もしないうちに街の灯が恋しくなるに違いない。
思わぬ怪我にさいなまれたこの夏は、こうした半日の現実逃避がせいぜいで、しかもこれをもののあわれと思える自分の心の機微なる変化と、両手がようよう使えるようになった再起動初日での「千曲 (ちくま) の修行」より来たる右肩の痛みとに、心身ともなる老いを感じずにはいられないが、半夏生も過ぎ、処暑へと至る今こそが実はいちばん夏を楽しめる折なのかも知れない。
2015 年 8 月