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存在の地平に並ぶものたち
そもそも生きている人間に生産性とか意味とか言いだしたら、誰しも存在そのものにはどんな意味もないわけだから、生まれたからには死ぬまで生きなければいけないというただそれだけのことだ。
特に意味もなく存在している人間の総体として営まれている社会なんてものはそもそも不完全でなので、彼が考えるほど繊細でも脆くもない。「社会の負担になる」なんて、そんな余計な心配をしなくていい。
そんなに弱くないのだ、我々は。
この植松被告というひとは、存在というものに期待しすぎているのではないだろうか。人間なんて、とりあえず息していれば十分だ。さらに欲を言うならば、社会的合理性からそうと定められている罪を犯さなければいい。その程度のものだ。
存在に意味などなく、後にその無意味さに耐えられず相対的に価値づけされるだけだ。そして、価値とは所与のものとして誰かから差し出されるのではなく、自ら獲得するものである。それ故に相対的であり主観的であるので、彼が行動を起こすに足る絶対性などそもそも持ち得ていなかったのだ。
彼の思考の欠陥は、「現に存在し得ている」という事実を見落としていることだろう。その存在の無意味さにおいて彼らは「お前と同じものだ」ということだ。誰もが同じものだ。
いかなる存在にも平等に意味がないだけだ。