書き言葉と話し言葉とあとひとつ
書き言葉の方が、自分の思ったことを正確に伝えられる。話し言葉は、話したそばから言いたかったことが漏れていく感覚がある。どこかよそよそしい。
おなじ日本語なのに、なぜこんなに隔たりがあるのか。
書くほうが性に合っているといつも思っていた。話そうとすると言葉が出てこない。今感じている、胸の底で熱を帯びて煙を上げているこの何かにどんな言葉を当てたら良いのか。いつも途方に暮れる。
”I don't have a word for this(適切な言葉が見つからないわ)”
映画『羊たちの沈黙』で、クラリスがハンニバルについて訊かれてこう答えていた。
「何て言ったらいいのか分からない」、まさにこれである。一言で言えないので言葉を重ねるが、結局核心にはたどりつかない。このもどかしさで、話すことがさらに億劫になる。
数年ぶりに『ウォールデン 森の生活』(ヘンリー・D・ソロー著)を読んだ。文庫で上下巻になっているのを納得する長さと重厚さだった。
「そこに使われている言葉を話せたとしても、読むには十分ではありません。話し言葉と書き言葉の間には、大きな隔たりがあります。(中略)私たちは話し言葉をいつの間にか母親から学びます。話し言葉を、昔から変わらぬ母の言葉と呼ぶならば、書き言葉は練りに練った父の言葉といえます」
思ったことを瞬時に言葉に変換する話し言葉は、瞬発力と反射神経がいる。ソローは「動物的」と評していた。
書き言葉は、書き手の経験が地層のように重なり合っている。おなじ言語を話すだけでは足らず、その層をかき分けて地下深く潜る術を知らなければ理解できない。
でも最近は話し言葉、書き言葉のほかに、打ち言葉があるのでは? と感じている。
ペンを手にして紙に書くことと、こうしてキーボードを介して思っていることを文字にするのは違う。ペンを手にもつと、感情が文字になるまでの時間が短い。それこそペン先からインクが出るように、時に文字が私の意思とは関係なく溢れてくる。キーボードを打つと、思ったことが文字になるまでに一瞬の隙が生まれる。空気が漏れるというのか、ちゃんと届かずに感情が寄り道してしまう。紙に書いているときは「私はこんなこと考えてたのか!」と視界が開ける感覚がたびたび起こる。手が勝手に動く。文字はあとから付いてくる。
打ち言葉と書き言葉の距離が縮まればいいなと、こうしてnoteに綴るたび思う。
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