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パワーとスピードと時間からイチ抜ける


20年余りのRPG

力をつけて振り返ることなく猛進し、敵を倒し、他人より早く手に入れたアイテムで障害物を斬り、さらなるレベルアップを図る。
スタンプラリーなら、いかに効率よく回るかを最優先する。集団に入れば全体最適をかんがえる自分が発動する。

いままで生きてきた時間の半分以上を、RPGさながらに過ごしてきた。
「環境を買う」という意味で教育に重きを置いた親の言い分も、自分が親となった今は理解できる。納得してるかどうかは別だが。
そこから抜けるというのは、勇気よりも覚悟がいる。意識しないと旧体制にいとも簡単にもどってしまう。

でもやめるのだ。パワーからもスピードからもリタイアするのだ。そこに満足はあっても、そこで安らぐことはなかったから。


SNSで他人を見る。 自分を見ない。

以前観た米国ドラマで、息子のアメフトの試合に仕事で行けなかった父親が
"I'm sorry I wasn't there for you.(観に行けなくてすまなかった)"
と謝るシーンがあった。

数ヶ月前に、SNSのアカウントを複数閉じるか休眠した。SNSに時間を割くのは、わたしにとっては効率と機能を駆使して周りを偵察するのとおなじことだった。そのころの自分に、息子に謝った父親とおなじ台詞を贈りたい。

「傍にいなくて、ごめん」

時間も“わたし”が映ってる

学生のころから「予定のない日」が好きだった。
「すべきこと」「しなきゃいけないこと」、そのどれからも自由でいられることが自分にとっての自由だと感じていた。

「今日中にあれしなきゃ」「明日までにこれ終わらせなきゃ」
そのどれもがない、締め切りのない生活に強烈に憧れていた。そこに執着し過ぎてかえって不自由になるという本末転倒っぷりだ。
でも、時間から自由であろうと足掻く最中で気づく。

「〇〇しなきゃ」はたいてい自分の中の決め事だと。

相手あっての締め切りというのはたしかに存在する。自分に手持ちの時間があるように、相手にも時間がある。けれど、締め切りを日常にぶら下げて生活するかどうかは他ならぬわたしの選択なのだ。時間はわたしが姿を変えただけ、わたしを映すただのスクリーンだった。

誤解を恐れずに言えば、わかしが変わると時間も消えるのかもしれない。刻(とき)には色も形もおそらく匂いもない。記憶にはあるが。
他ならぬわたしがわたしの傍にいれば、時間はそこに在ってそこにしか生まれない。

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