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弔いのスコーン
故人のことを想いながら台所に立ったのは、はじめてだった。
故人を思い浮かべて作ったというよりは、作るどの過程にも故人がするりと滑り込んできた感じがした。
昔からスコーンが好きだ。
ほんのり舌の中央にひろがる甘みも、齧ったそばからホロホロくずれてゆくのも、ミルクティーの水分とあわさって喉をゆっくり落ちてゆくのも、オーブンに入れて黄みがかった生地も、すべてがいとおしい。
お店によって形も食感も甘さもちがう。
自分の好みを知ると、「じゃあ、あそこのお店はどうなのかな」とさらなる探求心をくすぐられる。
薄力粉や強力粉、ときに全粒粉を混ぜて作るようになったのは、ここ最近である。以前も「スコーンミックス」で時折作っていたが、半年ほど前にスコーンだけのレシピが載った本を見つけた。載っている方の数だけレシピがあり、粉の配合も生地のまとめ方もちがう。オーブンから出したあとの冷まし方にひと工夫ある方もいた。出来上りのお写真でいくつか気になったものを、自分でも作ってみた。
そのうちのひとつのレシピで、はじめて綺麗な「オオカミの口」が表れて感激した。オーブンに入れた生地が縦にふくらんでできた裂け目が、オオカミが口を開けたさまに似ているらしい。牧歌的な見た目に反して穏やかでない呼び名だが、それもまた面白い。
それからはネットでスコーンのレシピに遭遇するたび、作ってみた。全粒粉入りはビスケットに近い食感になり、これはこれで新たな発見だった。つい先月出合ったレシピに、本の紹介があったのでさっそく借りてみた。
亡くなったと知らせがあったのは、それからすぐ後のことだ。
「なにか作ろう」という嬉々とした思いも浮かばぬが、家族のために台所には立った。お腹が空くし空腹を感じる自分も現金なものだと時に笑って途方にもくれた。
ふと、借りてきたレシピ本を開くと材料に「生クリーム」とある。冷蔵庫に買ったままの生クリームが開けずにそのままだったのを思い出した。
日中、家に私ひとりになってから台所に立った。
このレシピは生クリームを使うのと、生地の伸ばしかたに特徴がある。おおきな写真とともに作り方が書いてあり、私はこの本ではじめて「小麦粉を入れたボウルにバターを加え、ボウルのなかでカードでバターを切る」工程を知った。
いままで、まな板の上で包丁を使ってバターをちいさく切っていたのだ。
遅まきながらカードは便利な道具である。
「歯が悪くてもスコーンなら食べられたんじゃないか」
「でも口のなかの水分を持ってかれるから喉に詰まるか」
「もし食べたら『おいしいねえ』って言ってお代わりもしてくれただろうか」
故人が私の右後ろに立っている画(え)がずっと頭に浮かんだまま、手首にちかい掌(たなごころ)で生地を思いきり伸ばした。
焼き上がったスコーンは、本のとおり「まわりはサクッと香ばしく、中はふんわりミルキー」だった。絶品である。家にドライ無花果があったので、生地の半分に混ぜこんだ。プレーンと無花果入りが半分ずつ出来上がった。
人間の三大欲求のひとつ、食欲には「創作欲」という前段階がある気がする。空っぽになった胃も魂も満たしたい、という欲。満たせるなら何でもいいわけではなく、充たすに足るもの。自分が充足をおぼえるもの。
どんなに疲れていても、私はスコーンだけは時々無性に作りたくなる。食べたくなる。
スコーンを作るために私は台所でひたすら手を動かした。
それが、私の弔いになった。