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自己実現の味

*この記事は、大学3年次に書いた文章を編集したものです。

かなり前、親しい友人が教えてくれた、ときどき思い出す言葉。

ヒトは三大欲求を満たしたときよりも、自己実現の瞬間により大きな快感を得るんだって。

私たちは何のために努力をするのか?
この疑問の鍵となるのが、「自己実現」だと思う。

自己実現の形は人それぞれであろうが、この二十数年間、私にとって最も身近であったのは「勉強・学問における自己実現」だった。
分からなかった問題が解けた時、試験を誰よりも早く解き切った時、返却された答案の成績が良かった時、体の内側からハッピーになる快感を小学生のときに得て、「自己実現の味」を知ってしまった私。
今思うと、「良い成績をとること」に麻薬のごとくハマってしまっていた。
中学生になってからも、多少中だるみ時期があったとはいえ、試験勉強は他の人よりも早く始めるようにしていたし、努力することで正当に報われることに安心感も覚えていた。
しかし試験というものは、学年を重ねるごとに難しくなるのが常である。壁が高いほどに自己実現の快感は増す一方で、いつも上手くいくはずもなく、挫折することも増えていった。
ひと月以上も前から地道に準備していた試験が、数日前に勉強を始めた友人に敵わない。
悲しい思いをしたくないから、最善を尽くす。
こんなに努力したのに解けなかったらどうしようという脅迫観念に苛まれて、試験前日は眠れなくなった。好きな科目であればあるほど、恐怖感が強かった。
適度に手を抜くことができず、試験に対して必要以上に慎重になってしまう。

受験生になると、その傾向に拍車がかかった。襲われる恐怖から逃れるにはひたすらに机に向かうしかなくて、少しでも無駄な時間を過ごすと怖くなってしまうからとりあえず暇さえあれば勉強していた。恐怖だった。後にも先にもこんなに勉強した時期は人生でこの頃だけになると思う。

幸いなことに希望通り東京大学に合格し、試験に追われる日々はやっと終わるかと思いきや、「進振り」やら研究室決めやらでさらに優れた母集団の中で競争を強いられることになった。再び自己実現と脅迫観念の狭間で数々の試験を乗り越える日々を3年間続けている。

こんなわけで、小さな頃からペーパーテストによる評価の繰り返しでここまで来てしまった。
中学受験時代の塾講師の言葉が今になって心に刺さる。

皆さん、偏差値人間にはならないでくださいね。

私は偏差値人間になっていないだろうか?
正直に言うと、この生き方が良かったのかどうかよく分からない。
現状に不満があるわけではないけれど、小さなあの頃に「自己実現の味」を知っていなければもっと気楽に生きられたのではないかと思いを巡らすこともある。

今は大学3年。来年度からは生活が大きく変わることになる。研究生活の開始だ。
研究は、試験はおろか学生実験とも全く性質が違う。なにかを覚えたり理解したりしたからといって研究成果が出るわけではないし、「運」や「勘」も大きく効いてくると聞く。運や勘は、努力が踏み込めない領域だ。
そもそも私には研究者としての素質はあるのか?卒業後は?どんな職に就く?
なかなか未来のビジョンが見えないので、悩むことも増えた。

自己実現を迎えるのが、年を増すごとに難しくなっていく。
ヒトの一生はそういう風にできているのかもしれない。
それでも、自己実現の味を知ってしまった私たちは努力せずにはいられないのだろう。

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