そこに人がいることってどういうことか、覚えておけよ(by かえるさん)
言葉は難しく、言葉は素晴らしい。
悔しいなー、と思うのは、言いたかったことをサラッと一言で言い表されたとき。たまたま息子と共に見ていた細馬宏通さん(a.k.a.かえるさん)のツイキャスに、いきなり自分の名前が出てきて、昨日の自分が書いたnoteを紹介してくれた。息子がニヤリとこちらを見つめて笑う。「とうと、良かったね!」と(笑)。「お、おうよ……!」と少し自慢げな父こと僕。
そして、自分が昨日の晩、長々と書いたこと、伝えたかったことを一言で伝えきられてしまった。それも、軽いフリートークの流れで。アドリブで。
「そこに人がいることってどういうことか、覚えておけよ!」
あー、自分が言いたかった! この言葉(笑)。しびれるなぁ。なんで思いつかなかったんだろう? 自分が考えたことにできないかな(笑)。
ネットの向こう側、SNSの向こう、LINEの向こう……にいる、大好きな友人、ちょっと苦手なあの人、会話もしたことがない彼、憧れの彼女、頑なな老人、気取った子供……でもそこには触れられないけれど人がいて、彼らは一人ひとり生きていて、そして何かを考えて、そして、時折、言葉で、歌で、映像で、動きで何かを伝えようとしている。でも、それをネットを介して知る時、すべてが「情報」のように感じてしまっているときがある。でも、そうじゃない。忘れちゃいけない。
細馬宏通(a.k.a.かえるさん)は、自分にとっての「知の巨人」である。そして、とても明晰で、美しい言葉の遣い手でもある。なのにふわふわと軽い。いつも、にゃぁにゃあと浮わついている。素晴らしい。現在、早稲田大学の教授だったりするけど、今の自分とは「レーベル・オーナー」と「アーティスト」の関係。まさか、の、だ。ちなみに、昨日共に紹介しておられた野中モモさんは、かえる目というバンドの生みの親/プロデューサー/フィクサーだったということを記しておく。
なぜにまさか、と云えば、細馬さんと知り合ったのは、音楽家としてでも文筆家としてでもなく、自分が大学生で細馬さんもまだ大学院生だった30年くらい前、たまたま京都は吉田神社の近くにあったレコード店「Joe's Garage」(ちなみに現在ビンタン食堂というエスニックのご飯屋さんになってました! 今日も朝散歩してきました)のカウンターで「なんだか、ちょっとおかしな人(ネットアイドル)」としてだったから。以前もどこかで書いたかもしれないけれど、今の時代にこの出会いは面白いリンクと思えるので、無断で再掲します。
当時、細馬さんは、Macintoshのハイパーカードをベースとしたスタックの名手だった。「ハイパーカード」「スタック」というのが分からない方も今や大多数だろうけれど、これはほんっとうに素晴らしいメディアのいち形態だったので、ちゃんと調べておいた方がいいです。自分が説明するよりも、wikiの方が分かりやすくて正しい。
今から30年前、細馬さんは「EV」というハンドルネームで、強烈に面白い「スタック」の制作者として知られていた。それもまだインターネットもない時代、在るのはパソコン通信というホストを介しての連絡網(ニフティサーブ)があった程度。ただ、当時はパソコン通信をする際に電話にカプラーという機械を取り付けたり、結構な出費をしなければならなかったもので、僕はその伝説的なメンツが居並ぶフォーラムに参加することができなかった。最先端のアイディアを詰め込んだ細馬さんの「馬鹿スタック」も、噂でしか知らなかったのだった。
当時、僕が住んでいたのは、吉田ハウスという少しだけ傾いた四畳半の集合アパートだった。台所とトイレもあるのだけれど、玄関と言っても1/4畳くらいのもの。ポストなどなく、郵便/新聞受けとはいい条、ただ玄関の扉に穴が開いているだけ、みたいな安アパートだった。既に僕は電気を消し布団に入っていたとある晩、深夜の1〜2時ころに、玄関のあたりで、
「カサカサ……コトンっ」
という音がした。「ん?」と思いつつ、ネズミあたりじゃなかろうか、とまぁ、気にすることもなくそのまま寝ていた。自宅にネズミが出ても気にしないようじゃオシマイかもしれないけれど、まぁ、そんな感じだったのだ、当時。
朝が来て、玄関あたりに行ってみたら、「あれ、何だ、これ?」と。そこには、青いフロッピーディスクが素のままで1枚落ちていた。そう、ニフティサーブにつながる手段がない自分のために、深夜に細馬さんがフロッピーディスクにスタックを詰め込んで、直接持ってきて、ポストにコトンと入れてくれたのだった。
喜び勇んで、手に入れたばかりのMacintosh LC520でそのスタックを楽しんだのだが、それ以上に、当時最先端のデジタルツールをベースにした「デジタルアート作品」が、手渡し、それも直接深夜のボロアパートに「コトン」と投函する、という食い合わせの悪いアナログ感にいたく感動したものだった。
スタックとは、本来ならばコンピューターの中から出ることはできない「バーチャルな愉しみ」のはず。昨日の言い方でいえば、「触れないもの」ということ。でも、「レコード店でたまたま知り合った人の自宅にフロッピーディスクを投げ入れる」という方法論は、その中身以上に、それを作った細馬さんという人の人間性がはっきりと浮き彫りになっている、と思うのだが?
バーチャル、いったいどこに行った?
デジタルのメディア・アート、どこに行った(笑)?
そして、思う。「そこに人がいることってどういうことか?」
そこには、本当に人がいた。作品の向こうにはっきりと人がいた。
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