第3話 セルフ・パブリッシングの落とし穴
あのころの僕らは、出版社をやりたかったわけじゃなく、ただただ、雑誌が作りたかっただけ。だから、どうやってそれを書店に並べるか、次の号を出すためにどうやって精算していくか、それ以前にどうやって売るか、なんて何ひとつ考えていなかったのです。
道まだ遠く
『3ちゃんロック』との出会いで雑誌作りに興味を持ったわけですが、具体的にどうやってそこにたどり着いたらいいのかは分からない。当時、少しニューヨークに住んだこともあって、現地のファンジン・カルチャーに刺激を受けるものの、自分の興味と重ね合わせるには言葉の問題が大きすぎました。自分はヴィジュアル的な素養よりも、言葉によって刺激を得るのだろうな、とあらためて思った時期でした。
その後、何の経験もないまま、3年ほど、リットーミュージックという出版社で雑誌作りの基礎を教えてもらうことになります。時代は1990年代中期、電算写植/電子組版を知っている最後期だと思いますが、最後の1年くらいは、商業誌において自分の記事は自分でDTPをして入稿するなど、かなり自分勝手な経験をさせていただいたと思っています。
まぁ、どんな仕事もそうなのですが、3年ほどプロフェッショナルの現場で必死こいて働けば、ど素人が名刺に「フリーランス◯◯」と肩書に書ける程度には知識と経験を積めるもの(と勝手に思い込んでる)。そしたら、もういいよね、と会社を辞めた翌日から、なぜか仕事で、ちょうど日本に上陸したてのDOEPFER(モジュラー型シンセサイザー)のカタログを作っていました。ただ、まだ一般の印刷所ではDTP入稿のノウハウがまったくないころ、それゆえに友人のデザイナーと共にデータ入稿ではなく、キンコーズあたりでページ毎にわざわざフィルム出力をして、トータル数十ページにわたるカタログを仕上げたことを覚えています。もちろん、すべて「こうやったらできるんじゃないか、な?」と勝手な想像の中で、何度も失敗を重ねながら。DTPがまだ未成熟のジャンルだった(Adobe Illustratorが5.0J、Quark Xpress 3.31Jのころ)ので誰も教えてくれないし、ソフトウェアのハウトゥ本は出てるけれど入稿のノウハウ本はないし(いまだにほぼないけれど)、印刷所ごとに対応/状況が違うし……というか、そういうトライアル&エラーをするのが当たり前だと思っていたのかもしれません。
嘘八百で大仕事
それ以降、ずっとフリーランスで編集をやっていますが、そのころ作った名刺に、「ライター/編集者」の横に、どうせ仕事来ねぇだろうけど、と半分冗談で「DTPデザイナー」の文字を入れた数日後、ライター仕事の打ち合わせで、「これって記事だけじゃなくって、パンフレットや16ページの小冊子、小田さんのところで全部作れるってことですか?」と訊かれることに。本来ならば、「いや、まぁ、DTPの修正くらいだったらできるってことです。小田さんの“ところ”って言っても、完全にひとりぼっちですから!」と正直に言うべきだったんですが、フリーランスに「ノー!」なんて言葉が存在するわけもなく、「あ、できますできます。僕らこれまで結構なカタログとか作ってきましたし(少し事実)、小冊子もぼちぼち作ってますよ(ほんの少しだけ)。もちろん書籍だってできますよ(大嘘)」と。「それでは、小冊子、企画/営業はこちらでやりますから、取材/ライティング/編集/デザイン込みで、ページ30,000円くらいでお願いできませんか? フリーペーパーなんで部数的には2万冊くらい刷ります」というバックシとした話が突然に舞い上がる。いや、そんなもん、やったことないんだから、できるわけない……いや、これってトータル48万のお仕事やん。え、中抜きなしで、月刊で作るんですか? レギュラー仕事ってことですね……もちろんやります! やらせてください! と即、了承をしてしまったのでした。
そこからが大変。ここまで来たら嘘八百で塗り固め、「もうフォーマット的なものを細かく作り込む時間がないので、創刊号は暫定的にDTPソフトでなくAdobe Illustratorだけで作らせてもらえますか?」と伝え、なんとか1号目を完成。猶予期間ひと月の間にDTPを必死こいてマスターして気づくと3年半、最終的には48ページ/3万部も配布された音楽流通業の小冊子をほぼワンオペで作り続けた時期がありました。もちろん内容は友人のライター諸氏に手伝ってもらったものの、結果、体力の限界というよりも、好きでもない音楽の提灯記事作りによって、少しずつ心が蝕まれ始めていたのです。もう本当に「ヤバいヤバいヤバい……」となってきて嫁さんに「もうやめてもいいかなぁ」と相談、「経済的には大変やけど、子供もいないし、ま、ええんちゃう?」なんて会話をしていたころに、親会社の経営事情でその冊子が終了。事なきを得ると同時に、単発でやるのはいいけれど、興味のない、面白くもない雑誌作りがすべてになると心が壊れ始めるのでやめよう、と誓ったのでした。
架空の台割り
先のフリーペーパー、そして同時進行でヴァージン・メガストアの広報誌「Virgin」まで制作していたものの、まだなんとか気持ちが保てていた最も大きな理由は、そのころに同時進行で、本当に作りたかった音楽誌『map』(2000年)を作り始めていたからだと思っています。
これまで何度も書いていますが、『map』は決して自分が始めたものではなく、現在Sweet Dreams Pressを運営している福田教雄によってスタートしたものです。自分といえば、彼が作りたいものがあまりに面白そうだったので、当初はそれのお手伝いのつもりで関わり始めたのでした。元々、リットーミュージック内で共に仕事をしたものの、部署が違うということもあって、特に関わることもなかったわけです。しかし、たまたま深夜のコンビニで「架空の台割り」を見せてもらったことで、自分たちのギアがカチっとトップに入った気がします。
その100ページほどの台割りには、まだどうやって形にしたらいいか分からないけれど、びっちりと自分がやりたいインタビューや連載記事が書き込まれていました。台割りというのは、本や雑誌を作る時に、どのページにどの内容が入るか、ということを表にしたようなもの、簡単に言えば本の設計図のようなもの。そして特集の内容も含めて、このまだ何ひとつできていない雑誌が形になったら、なんだか面白いことが起きるんじゃないかと。「実際に作ろう。できることあったらなんでも手伝うから!」とハッパをかけたのです。もちろんすんなりと本作りに向かうわけもなく、一緒に初めてのアメリカ・ツアーを敢行したり、共に音楽書籍『MONDO MUSIC2001』の編集/構成をやったり、すったもんだといろいろとやった挙げ句、2年後、当時自分が借りていた映画『リング』のロケに使われたボロボロの洋館のようなアパートの蒸しかえる一室で、死ぬほどの校正紙にまみれ、汗だくになり、笑いながら、頭少し変になりながら、この120ページの雑誌は産み落とされました。
素人に印刷所が対応し始めた時代
『map』の1号目は、現在、多くのひとり出版社が頼りにしているシナノさんで行なったと思います。初号の制作費に関しては、福田くんが捻出してきたので定かではないのですが、2号目以降は2人で折半したのでしっかりと覚えています。ただ、多くの人は信じられないことかもしれませんが、オフセットで印刷して製本するという工程だけに関して言えば、この20年で恐ろしく安くなっています。ここ数年、コロナ禍で書籍用紙の原材料でもあるパルプの高騰によって価格は再び上昇しているようですが、それでも2000年前後にシナノさんや中央精版さんといった印刷会社に依頼して100ページ超えの雑誌を作ったときよりも、かなり安く印刷が可能になっているようです。それは、印刷会社の企業努力はもちろんですが、24時間体制で常に印刷を行なうという人海戦術によってこの低価格を実現していったのではないかと思われます。つまり20年前よりも2023年の今の方が、本を作りやすいということです!
思い返せば2000年当時、これらの印刷会社がようやく私たちのような個人出版社の2、3,000冊程度の少部数印刷に対して門戸を拓いてくれて、中間業者を通さずとも直接印刷依頼ができるようになったのです。ここ日本において出版業のピークは1995年ごろと言われていますが、それから5年ほど後、出版業界全体が急激な下降線をたどり始めていたころ。そんな不安感があったからこそ、印刷会社も、僕らのような小さなクライアントでも丁寧に対応してくれたのだと勝手に思っていますし、本当に感謝しています。
また、忘れてはいけないのは、印刷という業種において恐ろしいスピード感で電算写植からDTPへと以降していったということ。DTPという言葉は1985年ごろに生まれて1987年ごろに現実味を増していったと聞きますが、ここ日本で実際の出版に用いられ始めたのは1995年ごろではないでしょうか? 僕が会社を辞めて、フリーで印刷所に駆け込んだ1997年ごろは、どの印刷所も「DTPはエラー多いから大変なんだよ」と話をするのも大変、しかし2000年の時点では、どこの印刷所もポストスクリプト・フォントを用意し、問題なく対応できるようになっていました。また、自分たちもフリーペーパー制作で身につけたDTP技術を元に、MOディスク数枚にデータを詰めて、印刷所に納品。これにより、雑誌を作る上で恐ろしいコストカットができたのです。これが従来の製版であればここに何十万もかかるわけで、DTPは、まさに自分たちのために用意されたもののような気持ちでした。
この5年前であれば、決して作れなかった、作れたとしても膨大なコストがかかっていた雑誌作りが可能になったのです。セルフ・パブリッシングという世界においても、2000年を境に大きなシンギュラリティがあったと自分は思っています。
出版を続けられなかった訳
「セルフ・パブリッシング」だの「ひとり出版社」だの、そんな言葉がまだなかった時代に、何の考えもなく、ただやりたいから作ってみたのが『map』でした。それは、自分たちだけじゃなくって、それ以前の同人誌もそうだろうし、ファンジンもそうだろうし、とにかく熱意だけでうっかり作ってしまった、商業誌と何の関係もない代物です。だからこそ圧倒的に面白いし、だからこそ稚拙だけれど、今も誇りに思い続けられます。
『map』として2人で活動していた7年ほどの時間に、雑誌を3冊、別冊や画集を数冊、そしてCDや海外からの招聘イベントを山盛り作り続けました。この時間は本当に濃密で、正直楽しくて仕方がなかった日々で、それだけで何章もできてしまうのですが、それはまたいずれ。ま、自分たちが作っている冊子やイベント、CD等が決して売れなかったわけでもないし、「コレは確実に大ヒットとなるだろう」というアーティストたちがうちのレーベルで作品を作っていた時期もありました。正直、2人で「海外のインディレーベルみたいに、アーティストと共に大きくなるのってどうなのかな?」と、話し合ったことも。ただ、心のどこかで、「自分たちはレコード会社として大きくなりたい訳じゃなく、やっぱり本や雑誌が作りたい」が根底にあり、彼らのマネージメント……もちろん本気でやったとしてもできやしなかったけれど……を考えることができませんでした。また、出版とは関係ないのですが、海外からのアーティストを招聘してツアーをすることが楽しすぎて、それに1年のほとんどを費やしてしまったのも本を作れなかった理由のひとつです。
また、構成員2人が独身で、特に守るものも何もない状況だったスタート時から、僕が家庭を持ち子供が生まれ、福田も結婚し家庭を鑑みなけれなならなくなった状況で好きなことをやり続けてもいいのか、という疑問も確かにありました。生活のために、もう少しやりたくない仕事もやらなければならないのか、と。でも、もうやりたくないことをして家族を支え、かつ好きな本を作り続ける体力は、40歳を越えた自分にはあまり残っていませんでした。そして僕らが導き出したのは、自分たちが作る雑誌がどれくらい売れるかと考えたとき、「2人分の家庭の経済を維持することはできないけれど、1人分、ひと家庭分ならなんとかなるかも?」ということ。もちろん15年前と現在では制作費や営業コスト、流通網等々すべてが違うので一概には言えませんが、セルフ・パブリッシング/ひとり出版社の可能性として、本当に「一人でやる」、もしくは「ひと家庭」でやるということのみが、経済的にずっとやめずに続けられる方法なのではないか、と自分は思っています。地元のちょっと美味しい定食屋やお好み焼き屋が、家族経営だったらこじんまりした形でも十分にやっていけるけれど、アルバイトや優秀な料理人を雇って規模を拡大をしようとするとコケてしまうようなものと同じく。
ただ難しいのは、書籍の制作であればまだしも、雑誌というものは、どこか客観的な視点、複数の視点が必要ではないかと考えます。また、それ以上に、「販売・営業」的な仕事をする人間が、編集・制作とは別に必要ではないか、と。書籍営業の章でまた考えてみたいと思いますが、これがセルフ・パブリッシングの最大の悩みどころかと思います。
結果、福田くんは妻でもある優秀なデザイナーのカイちゃんと共に「ひとり出版社」であるSweet Dreams Pressを立ち上げ、自分は「なぎ食堂」というヴィーガン食堂で中華鍋を振りながら、「map」の看板を借りながら出版やレーベルを続け、その後「D.I.Y.パブリッシング」に向き合うことにしたのです。