ここ最近考えているもろもろとか願いとか
<すっげえ大きな決断やったし、目的意識とか考えずに大学院に進学したい意志を衝動的に固めたから、初めはどうなることやらって感じやったんやけど、まあまあなんとかがんばってる。体調は不安定気味、まあこれは通常運転。
研究活動に身を置けてることはまじでいい。「研究をして論文を残す」という形にはあんま興味ないんやけd(暴言)、何より「研究をしている」という過程にいることそのものが、自分・他者・社会/世界と向き合うきっかけになっている。これまでの人生で、経験したことや考えてきたこととちゃんと繋がってもいる。
ある信念らしきものが、ここ数か月で着実に前進し確信に近づいている気がしている。それは「リアリティのある体験と学びのきっかけを育みたい」ということ。
ここ数年は、組織開発や人材育成周りを中心に、人や事業のストーリーに携わらせてもらってきた。キャピタリズムと人の願いの狭間で葛藤しながらも、それぞれの幸せや納得感を追い求めてきている人たちと出逢ってきた。同時に、変化し続ける社会下で自身や願いと向き合う難しさ、自己の抑圧の積み重なりが故に生じる生きづらさ、働くや社会と適応していく虚無感などが「構造的に」いまもこれからも起き続けていくんだろうなということがわかった。
「構造的に」というのはつまり、仕事や働くにおける構造があり、前段となる大学/高等教育があり、中等・初等教育があるということを知った。社会の構造が教育にも影響し、学歴や成績が問われ子どもたちは常にプレッシャーにさらされる。変化し続ける産業社会のストレスは確実に大人/親にも影響を与え、子育て/子どもとの関わり方、家庭のあり方に影響する。
社会のパラダイムの変化によって、学校の存在意義も家庭のあり方も変化していく中で、人間や子どもが成長していく過程で「誰が・何を担っていくのか」が問われている。いま置かれている機会、そこにあるメリットや逆に違和感は何から生じているのか、社会構造がどのような影響を及ぼしているのか。これらをまなざしながら、人が生きることや学ぶことのあり方を探索するのが教育学なんだな~ってことがわかった。俺なりの解釈やけど。(これまで学問としての教育学にあまり興味なかったんやけど、学び始めて本質が理解できてきた気がする、教育学おもしろいでしょ)
なんとなくなけど、「社会とうまく対話していきながら、自分の願いを表現していける」社会を紡ぐこと/人が1人でも増えていくことに寄与していくことが、自分の人生の役目なのかなぁと想ってきている。生きているみんなが、「この自分でいられてよかった、自分を生きてることってわるくないな」って心地よさや安心を育んでいけたらいいなと思うし、そのためには「社会ってどんなもんなんかを知り、その中で "こんな形だったら生きていけそう" 」ってのを見出していく必要がある。
俺の信念に戻るけど、「リアリティのある体験と学びのきっかけを育みたい」を最近は特に大切にしている。もはや場づくりや対話において、生命線として握ってるのここだけかもしれない。
思ってる以上に、世界は広い。恩恵もあれば、嘆きたいこともたくさんある、それが歴史。強大すぎて、構造ってなかなか変わらない。場やきっかけ、ワークショップや授業、研修とか2単位ってまじでまじでちっぽけ。でも、そんな小さなきっかけに命を懸けていきたい。いきなり世界は変えられなくても、1人から、自分や身近な大切な人たちとから、自分を生きれる心地よさや楽しさ、幸せを育んでいきたいなと願う。
今日はたまたま内省が耕されて饒舌気味だけど、毎日「こんな信念で生きていくぜ」「あぁもうこんなこと願うなんて意味ない虚無」って航海の波乗りを繰り返してる。今は幸いにも大学教育に身を置かせてもらってるけど、引き続き高等教育に身を置きたいのか、はたまたもっとメタに学びの場のあり方を探索したいのか。そもそも、どのテーマに一石を投じたいのか、誰と手を取りながらどこに寄与していきたいのか。自分はどうありたいのか、何を成したいのか、どう生きたいのか。全然わかんなくて、悩みは尽きない。
でも、心の底にある「なんかこれは大切にしたい」「これは譲れねぇなぁ」みたいな感覚は、ゆっくりではあるけれど育まれてる感覚はある。何はブレても、この種だけはぜったいに逃さないように、これからもじっくりやってくか。>
ってなことを妄想してた。せっかくまとまった時間ができて本読んでたのに、2ページしか進まなかった。文献読書がぜんぜん捗んなくて、じぇんじぇんだめだ。けど、体調が今日はマシな日で久しぶりに自分の感性と対話できたから綴ってみた。こんな日があってもええな。