自己紹介という名の回顧録
本記事をご覧いただきありがとうございます。御倉七尾です。
今回は今後の記事を書いていくにあたって、まずは私がどんな人間なのか皆様に知っていただくべく筆を執りました。
まぁ、個人的な備忘録 兼 回顧録。基本ノンフィクションですが、ところどころ私自身の勘違いもあるかもしれません。
つまるところ読んでもらうことを想定していない記事(←ヲイ)なので、飽きたりイラっとしたところで離脱くださいな。
何でこんな記事を書こうとしたのか?
ぶっちゃけると何となく・・・というか、今日歩いていて【書こう】と思ったからです。
今私は自分のために、私自身がイラストレーターとして独立できるように、「実生活を変えよう」としています。
その中で、この「歩く」ことを含めて、「やってよかった」と思えたことがいくつもありました。
もし私が今後有名なイラストレーターになれた暁には、この記事を見つける方もいるでしょう。
もし私が今後無名のイラストレーターで終わるなら、たまたまこの記事を見つけた方は「このやり方は失敗する、あるいはこのやり方だけでは足りていないんだな」と参考になることもあるでしょう。
あるいは、異業種でも独立起業を目指す方の考え方の参考になる記事も出てくるかもしれません。
いずれにしろ、私が今後どうなるとしても、今私が学んだことは読んでいただく皆様にはプラスにしかならないことです。
もし私のTwitterやnoteの記事、Pixivが更新されなくなったり、活動の気配が見られなくなったら「こいつは失敗したんだな」と思って反面教師にしてやってください。
X(Twitter)メイン、仕事用: https://x.com/Nanao_Mikura
サブ、雑談用: https://x.com/Miku7_ZD
さて、「じゃあその方法をさっさと教えろや」という方、速やかにブラウザバックして、ほかの記事をご覧ください(笑)
(なぜこうもせっかく来てくれた人を追い返そうとするのか・・・汗)
「とりあえずお前ナニモンや」という方は、続きをご覧ください(笑)
現在のスペック:「アラフォーの独身リーマン」
この記事を書いている2024年9月現在、30代後半、年齢=彼女無しのいわゆる「アラフォーのおっさん」です。
一応、ちゃんと就職して、一人暮らししています。
いわゆる独身貴族のサラリーマンです。
顔はまぁ、普通ということにしときましょうか。過去に尊敬する先輩から「お前は顔が整ってるんだから身なりをちゃんとしろ」と怒られたことがありますが、まぁ美形ではないです。美形ってのは刀らぶのこういう連中↓のことを言うのです。
あとはまぁ、「売れないイラストレーター」というか、「まだロクに売れようとしてないイラストレーター」というか。。。
あまりアニメやゲーム事情に詳しくない方には「ヲタク」という言葉を使った方がピンとくるでしょう。
アニメやゲームが好きで、好きすぎて何かの気の迷いで絵を描き始めて20数年たったヲタクです。
自称ヲタクの方々には逆に、「イラストレーター」と名乗ったほうがいいですね。いわゆる「知識系のヲタク」の知り合いもいますが、そっち系ではないです。私の「専門」は、「イラストに関する知識や技術」です。なので、「イラストレーター」の方が適切でしょう。
今後の人生の目標:「イラストレーターとして独立する」
「何でこんな記事を書こうとしたのか?」の部分でも少し触れましたが、私は現在、「イラストレーターとして独立する」ことを目標に日々生活しています。
一応、現在の戦略は2本立てになっています。
資産形成をして、最低限の生活基盤を保証する収入を得る
イラストレーターとして収入を得て、資産収入+イラストレーターの収入で生活する。
イラストレーターとしてどれだけ売れるかが未知数なので、最悪売れなくても最低限の生活ができるように資産形成も並行して行っている、という感じです。
現状、資産収入の方はまぁまぁ増えてきて、いい感じに成長してきた(とはいえ、ほとんどが投資信託なので実際の収入ではなく、株価の伸びという形で反映されているのですが・・・)状況ですが、イラストレーターとしての仕事がまだできておらず。。。その辺が課題になっています。
回顧録:高校生のころ、「イラスト」と出会った経緯
ここから先は、基本的に私の回顧録です。
これまでどのような生活を歩んでいたのか、なぜ今安定した生活を送れているのに「イラストレーターとして独立する」などという目標を掲げたのか。
そこに至るまでの流れをつらつらと書いていきます。
現在私は「イラストレーターとして独立する」ことを考えて活動していますが、そもそも「イラストレーターという仕事」に出会ったのは2001年、私が高校1年生だった時の頃と記憶しています。
(「アクエリアンエイジ 悠久の処女宮」が発売されたのが2001年なので)
なので、その辺のから話を始めましょう。
今でこそ20数年絵を描き続けているので「昔から描いていた」と言えますが、もともと私は「絵は嫌い」でした。
思い返してみて、絵で褒められたことはほぼ無かったですし、そもそも「描きたい絵を描いた経験」自体が幼少期にありません。
その意味で「小さなころからずっと絵が好きだった」訳ではなくて、思春期にマンガ、アニメの女の子が可愛くてズブズブとヲタクの道にハマっていったクチです。
(ただ、当時「絵が苦手な自分」が嫌いでもありました。そこにも「絵を描き始める」きっかけはあったように思います)
それまでは「見る」対象だった絵を「描いてみる」ことにしたのは、その当時買い集めていた「アクエリアンエイジ」というカードゲームで、そこで「嫁(=一目惚れしたキャラクター)」に出会ってからです。
↓最初の嫁です(←言い方)。
普通は、「尊い・・・」で終わるところだと思うのですが、嫁に出会ってしばらく経ったある日、私はこう思ったのです。
「ん?待てよ?
・・・このイラストを描いてるのは俺と同じ「人間」だ。
そして俺も同じ「人間」だ。
アクエリアンエイジには後藤なおさん以外にもいっぱい絵を描いてる人いるぞ?
・・・だったら俺も、絵描けるんじゃね?」
当時、上記の「鹿島 栞」ほど上手く描ける気は全くしていなかったのですが、それでも描き続ければいずれ、同じようなクオリティの絵を描けるんじゃないか?と思って鉛筆と落書き帳にマンガの絵を模写し始めたのが最初です。
なお当時は「マンガ」と「イラスト」の区別もできておらず、「かわいい女の子の絵」と一括りにしていました。
ただ「鹿島 栞」の絵はパソコンが無ければ描くことができないことは分かっており、当時はその環境が無かったためやむなくモノクロの、マンガの絵を手探りで模写し始めました。
ちなみに当時は今のようにYoutubeもなく、ましてやiPadやなんかもってのほか。PCはいくら必要なのかすら分からないほど高額(当時実家で親が買ったPCが30万と言っていた記憶があります)で液タブは最低15万円~でなければ買えず、そもそも絵を描くためのソフトはPhotoshop/Painterくらいで、それも4,5万円~。高校生の自分にはどれもこれも、とても手が届かない機材ばかりでした。
コラム:カードゲームとの出会いと、当時のカードゲーム事情
(つらつら書いていたら当時のカードゲーム事情に話が飛んだので、この部分は「コラム」として切り離しました)
元々私が小学生の頃から「遊戯王」の連載があり、そのマンガの中で描かれた「マジック・アンド・ウィザーズ」というカードゲームが実際に「遊戯王デュエルモンスターズ」という名前で発売されました。
(この当時は中学に入りたてだったのを覚えています)
遊戯王デュエルモンスターズ
https://www.yugioh-card.com/japan/
同世代の人なら共感していただけると思いますが、「漫画の中で描かれたカードゲームを実際にプレイできる!」と当時喜んで買いに行きました。そこからあらゆるカードゲームにハマっていき、ポケモンカードをはじめいろいろなカードゲームに手を出したのですが、中学生後半から高校生になった頃、「かわいい女の子がたくさん出てくるカードゲームがある」ことに気づきました。それが「アクエリアンエイジ」です。
今ではZ/Xやヴァイスシュヴァルツ、Lysee等、「美少女」を主体にしたカードゲームが複数ありますが、多分この「アクエリアンエイジ」が一番最初のカードゲームで、こういう「美少女系」のイラストレーターを起用したのもこれが初ではないかと思います。
(少なくとも、私はこれ以前にこのタイプのカードゲームを知りません)
そしてこの頃から徐々に、ラノベの表紙に「イラストレーター」が多用されていった印象があります。
(「ラノベ」が出始めた当初、ラノベの表紙にはアニメ版のイラストレーターさんが起用されているものが多かったです)
回顧録:大学生の頃、漫画研究部へ所属し、「コミケ」に出会う
高校生の頃、人生初の嫁に出会ってちょこちょこ落書きを始めて、クラスに数人いたヲタクとちょっと距離を置いた同類ポジションにいた(どっちかというと同じクラスよりは別クラスにいた中学からの友達や同じ委員会のメンバーとの方が仲が良かったです)私ですが、大学生になって漫画研究部に所属しました。
(まぁ、大学受験に失敗して1浪してたりするのですが・・・そこは割愛していいでしょう)
・・・いや、もともとは美術部に入ろうとしたんですが。部員勧誘の場所で、「美術部」と書かれたスペースに何もなかったんです。人も、ブースも。
高校生1年生当時、「イラスト」に出会ったものの、タイミング的には部活の募集は終わってしまっていて、当時弓道部に所属していた私は美術部に入り損ねていたのです。で、高校の時にやりたかった美術を大学生になってやろうと思っていたのですが、部活の受付ブースが無い。。。
で、仕方ないので同じ「絵」繋がりで漫画研究部に入りました。
後からうわさに聞いたのですが、私が美術部に入ろうとしたとき、どうやら部員が2人しかおらず、ほとんど活動していなかったそうです。。。数年後、美術部は美術部で「復活」していました。
で、肝心の所属した漫画研究部の方ですが、実態は「ゲーム部」という感じで。。。大体新入生が入った時と夏コミ、冬コミ、学園祭の年4回、絵をかいて提出するだけで、それ以外の時間はたいてい部室に行ってもみんなPS2で連合 V.S. Z.A.F.T IIやストリートファイターで遊んでるっていう。。。
つまるところ、私と同じように絵を描くのが割と好きなメンバーもいたものの、そういう人は個別に活動していて、部室には「絵を学びたい」メンバーが集まっている感じではありませんでした。
(これも私が大学院生になるころにはずいぶん改善されて、定期的に「絵を学ぶ会」が開催されていましたが。。。そのころには研究や英会話の講座の方が面白くて部活からは遠ざかっていました。絵を提出するイベントは毎回出してましたが。)
ただそこで、それまで名前しか知らなかった「コミケ」という存在に、学漫枠で冊子を頒布していたため私も毎回1枚絵を寄稿していました。
ということで、「一度現地に行ってみよう」と思って出かけたのが「コミケ」との最初の出会いでした。
(なので、多分2005年の冬が最初かな?と思います。2005年夏は先輩が宝の地図を広げてああだこうだ言っているのを見ていたのですが、良く分からなかったです)
一応、学漫の冊子に寄稿する形で2005年のコミケから参加していたことにはなるのですが、私は学漫のブースを手伝うメンバーには入っていなかったため、大学生の頃はほとんどコミケは一般参加者でした。
ただこの頃はPCのとある紳士なゲーム・・・PC98から連綿と続くF〇NZA的なゲームの最盛期で、そのゲームのイラストレーターさんが数多くコミケに参加していらしたのは、すごく楽しかったのを覚えています。
大学生当時はそんな感じで「とりあえず絵は描いているけど、絵を勉強する」環境は無く。。。
ただ、「コミケ」の一般参加者としての楽しみはしっかり覚えましたね。当時はコミケ前日から「なのは完売」が謳われて、私もほぼ毎回、2日目になのはブースに突っ込んでました。
炎天下の中、なのはブースの待ち行列で脱水症状と戦っていたのはいい思い出(?)です(笑)
特に大学院生になってからは校内のバイトのようなもの(学部生の授業の手伝い)で(学生としては)結構タイムパフォーマンスよく稼いでおり、毎回コミケで予算5万くらい浪費していた記憶があります。
コラム:大学2年生、初めて自作PCを組む。
ここでちょっとまた本筋から離れますが、大学2年生の時に自作PCを組んだ話をします。
今でこそiPadで気軽に絵が描ける環境が手に入りますが、当時はそんな簡単ではなかったんだよ、と。
ちなみに、2006年の冬だったと記憶しています。
大学生になってから、なんとなく漫画研究部で絵を描くように放ったのですが、結局のところ上記の「嫁」のようなデジタルイラストが描きたい、という意識はありました。
しかし、家には家族共用のPCはあるけれど、それを私一人が占有するのも家族が見ている目の前で絵を描くのもちょっとしんどい。。。
土台、Photoshop(CS2)は当時でも10万くらいして手が届かないし、Photoshopだけあってもペンタブレットが無いと描けない。。。
という感じで、全く手が届きませんでした。
しかしそんな折、親の勧めで、私専用の、自作PCを組むことにしました。
ひとまず自分専用のPCを確保すれば、いずれ絵を描く環境は作れるかもしれない、あと家族に気兼ねなく紳士的なゲームをできるという(リアル)スケベ心も手伝っていました。
当時はどうすればPCを組めるのか分からず、とりあえず最初は自宅にあったPC関連の雑誌を2-3カ月見ていたのですが、全然情報が無く。。。
仕方なく書店に行って、何かヒントはないか片っ端から漁ったところ、雑誌コーナーに自作PCに関する雑誌を見つけました。
(今のようにスマホもなかったのと、ネット上も情報は豊富では無かったので、「調べる」ためには書店が頼みの綱だったのです)
その時に見つけた雑誌がインプレスブックスのDOS / Vと、日経BPのWin PC(休刊中)です。
個人的にはWin PCの方が好きでしたが、残念ながら2013年以降休刊しています。
DOS/V POWER REPORT 2024年冬号
https://book.impress.co.jp/books/1123110112
この系統の雑誌を合計3冊買って、右も左も分からないながら2週間くらい?かけてやっとPCを組み立てました。
で、まぁこっからすんなりPCで絵を描き始めたのかというとそんなこともなく、まずは紳士的なPCゲームにドハマりしました(笑)
当時美麗なデジタルイラストを使用したコンテンツといえば、ラノベとPCゲームでした。
一応この頃になると、「ペンタブレット」を使えばイラストが描けることが分かり、大学3年生の頃にIntuos3を購入したのですが、ペンタブレットの独特な操作感が合わず、デジタルイラストは挫折していました。
今でもペンタブレットは、せいぜい色塗りにしか使えないです。
Intuos3
https://tablet.wacom.co.jp/what/detail/detail_press.html?nno=311
この当時は綺麗なイラストを描くにはPhotoshop Elementsには無い、「パス」機能が必須と思い込んでいました。
(「イラストの描き方」的な本を読むとほぼ確実にパスを使用した作例が載っていて、Intuos3に付属していたPhotoshop Elements3では描けないと思い込んでいました。今なら、「まぁパス無くても何とかなるか。手間はかかるけど。」という印象ですね。)
回顧録:大学4年生、初のサークル参加、そして惨敗・・・
大学4年生の冬(なので、2008年の冬ですね)、初めて個人サークルで出展しました。
それまで(学漫での参加以外)一般参加専門だったのですが、どうしてもなのはのネタで描きたいものが出てきてしまい。。。
初めてのコミケ参加でモノクロイラスト集を作ったのですが、全然同人誌制作の方法が分からず、それどころかオフセット印刷とオンデマンド印刷の違いもロクに分からずに、日程都合だけで小数部のオフセット印刷しました。
(確か、オンデマンド印刷の期日に間に合わなかったんです)
で、50部でお願いしたのですが、実際には余部が25部くらい届いて。
計75部くらいになったのですが、当時は私自身の技術もまだまだ素人で1部も捌けないという。。。
当時人気ジャンルだった「魔法少女リリカルなのは」で、コミケ初参加、頒布結果 0 部。
正直すごく悔しかったですが、まぁ仕方ないです。それが当時の実力でした。
仕方ないので余った75部、すべて知り合いに配りました。漫研のメンバーや研究室のメンバー、バイト先の友達まで。。。
(確か社会人になってもまだしばらく残ってて、会社でできた友達にも配ったっけな?もしかしたら)
なお、この時にはまだアナログで原稿を作成していました。
回顧録:就職活動「世の中のイラストレーターのためになる仕事をしたい」
2009年、大学院修士1年生の後半から、就職活動をしていました。学部生3年生の時は親の影響もあり「大学院に行く」と決めていたので全く就職活動しておらず、研究にのめり込んでいたのですが、さすがに修士で卒業、就職することを決めていたので、やらない訳にはいきませんでした。
(この後行政の規制が入り、就職活動はその年の4月以前は実施してはいけないことになったのですが、私の時はまだその規制がありませんでした)
ちなみにちらっと大学院後期(前期が「マスター/修士」と呼ばれるのに対し、後期は「ドクター/博士」と呼ばれます)について研究室の先生に相談したのですが、先生からNGが出ました。
まぁ、今思えばこの時もう少し考えればよかったのかなぁ、と思わなくはないのですが、この時はそもそも「就活/就職する」=「どこかの企業に入る」ことであって、「起業する」などという案は微塵も浮かびませんでした。
そのうえで、それまでの生活で「自作PCを作る」ことはできたものの、特に「デジタルイラストを描く」ためにどうすればよいか、イマイチ手がかりをつかめていない状態で、さすがに「イラストレーターになる」とは言えませんでした。
なので、この時は大企業から中小企業まで、研究室が情報系(=プログラミング系)の研究室であったので、プログラマー志望で30社ほど、できれば印刷関係で働けないかと就職活動していました。
そして最初に選んだ30社からことごとく落とされる中、唯一1社だけ内定をいただくことができ、その会社に就職することになりました。
その時に私が内定をいただけた会社の志望動機で答えた内容は
「私は絵を描くのが好きだが、私自身が絵を描くより、私は世界中のイラストレーターの役に立つことをしたい。そうすれば、より効率的に世界が幸せになる。そして、御社にはその仕組みがある」
と言う事です。
「イラストレーターがイラストを描いても、何かしらの方法で出力しないと顧客には届かない」ことを念頭に作ったストーリーでした。
まぁ、自分の趣味(イラスト)と、やってきたこと(プログラミング)を組み合わせて説明しようとすると、こんな説明しかできなかったのも事実。
当時イラストレーターとして働くには機材も知識も、経験も不足していたのもまた事実。
そういう意味では、当時「これくらいしか選択肢が無かった」のも仕方がないことです。
ただ、今更欲をいうなれば、もう少し自分に正直になったほうがよかったですね。
私は岡田斗司夫さんの言う「法則型」の人間なので、「自分が本当は何をしたいか」が良く分からない人間なのです。。。
Youtube:その1/岡田斗司夫の4タイプ徹底解説
後述しますが、この時に「よく考えなかったツケ」を自分で払わされることになりました。
回顧録:大学院2年生、2回目のサークル参加、人生初の同人誌頒布成功
まぁ、「成功」とは言っても、赤字なんですけどね。当時はまだ「同人活動で黒字を目指す」ことをしていなかったので、印刷費/部数(円)で価格を決めていました。
当然、無名のサークルでは完売できないので、この時点で赤字確定なのです。
(なお、サークル参加費や当日の電車賃、ごはん代も考慮していません。そこまで含めると1冊が高額になりすぎて、どう考えても買ってもらえる金額にならなかったのです。)
とはいえ、この時は(現在まで含めて)人生最大の13部売り上げを達成しました。
要因としては
当時の参加者に人気の「魔法少女リリカルなのは」と「ガンダムSEED」ネタを組み合わせた
4コマ漫画ならぬ1ページマンガにしたことで、テンポよくネタを詰め込めた
(当時はまだ)なのはとガンダムSEEDが人気コンテンツだった
事でしょうか。
個人的には前回0部だったのが13部と、一気に2桁に突入したので満足しています。
一応、「初回のサークル参加のリベンジは果たせた」つもりです。
この時は1回目の失敗を踏まえて、「オフセット印刷」と「オンデマンド印刷」の違いを学びました(とはいえ、当時は違いがほとんど理解できず、「とりあえず小数部ならオンデマンド印刷の方が安い」くらいの物でしたが・・・)。
また、コミケに参加する前にサンクリで描き途中のコピー本を無償頒布して13部頒布できたので、頒布数は20部に設定して頒布しました。
その意味で、「おおよそ狙い通り」に頒布できたのがこのタイミングです。
(どちらも13部捌けましたが、偶然一致しました)
ただ、この辺りから「描けば描くほど赤字になるなら、いっそ描かない方が良いんじゃね?」という気もしてきました。
(特にこのタイミングでは就職が決まっており、会社では副業禁止でしたので・・・)
コラム:Comic Studio EX 3.0 の導入
今思い返してみると、この同人誌制作の際に導入した「Comic Studio EX 3.0」が初めてまともに使った「イラストマンガ作成ソフト」でした。
Comic Studioは現在イラストレーター界隈ではデファクトスタンダードになっている、「ClipStudio Paint」の前進に当たるソフトです。
当時は漫画用の「Comic Studio」とイラスト用の「Illust Studio」の2本の別々のソフトがあり、これらを統合したものが「Clip Studio Paint」となりました。
Comic Studio EX 3.0
Clip Studio Paint
https://www.clipstudio.net/ja/
前回のコミケで大赤字をたたき出していた(確か印刷費だけで25000円くらい飛んでた)ので、「原稿費だけでも安く済ませたい」と導入した記憶があります。
まぁ結局、この後はClip Studio Paintに乗り換えて、後にも先にもこの1回しか使わなかったんですけどね。
ただ当時、5万円を割るソフトの中では珍しくパス機能を持っていて、「お?」となった記憶があります。
(ただ、現在のClip Studioに比べるとパスの制御点の間隔が広すぎて、あまり使い勝手はよくなかった記憶です)
Intuosでは線が引けないので、コピー紙にアナログで絵を描き、それをスキャンして、短い線をパスで引いて、その制御点をスキャンした絵に合わせて線を配置するという、非常に面倒くさい作業を日々淡々と実施していた記憶があります。。。
マジであの時、なのはの髪の毛とか死ぬかと思った。。。
実際のところ、フルデジタルで作業できるのは社会人になってから、Cintiq(液タブ)を購入できてからになります。
回顧録:就職してから。会社でラッパ吹いてた。
そこそこ厳しい就職活動でしたが何とか1社だけ内定を受けることができました。
幸運なことに、そこは私が行きたかった第一志望群の1社だったため2つ返事で了承し入社、社会人になりました。
地方だったため自宅から通うことはできず、慣れない一人暮らしを始めて、最初の1年目は稼ぎを少しずつ貯めながら家具を買い進めていきました。
そして2年目に、会社の「消防団」への参加を支持されました。
(会社には消防団という、社内で火災が起こった時に対処するメンバーの割り当てが義務付けられているそうです)
そこで、田舎の会社と言う事もあるのでしょう、消防団の中に、「ラッパ隊」という、ラッパで演奏する吹奏楽団の超小規模なものがありました。
実は私は小学校の時吹奏楽部に入ることを一瞬検討して、やめたことがあります。中学受験があったこともそうですが、当時先輩たちの滅茶苦茶上手い(ように聞こえました)演奏にビビって入るのをやめたのです。
しかし、当時の興味、「トランペットってどうやって音出してるんだろう?」という疑問が解決できておらず、今後の人生を考えたときに「今やるしかない」と思ったので、消防団のラッパ隊に参加することにしました。
元々運動が苦手で、ラッパ隊に入らないと走ったり放水したりの訓練がキツくなるのも隠れた理由でしたが、「ラッパ吹ける!?」という興味の方が十分に大きな理由でした。
実際、そのラッパ隊は非常に楽しくて、その後6年間も、私が「就職活動の時によく考えなかった」ツケを受けるまでは続けていました。
実際、入社直後はそれまでやっていたプログラミングの仕事や、楽しいラッパ隊の訓練で満足していて、お金がたまって、それまであこがれていた「PX-5V」というEPSON製のプロの写真家向けのプリンターや、液タブのCintiqは買ったものの、大して絵は描かない日々が続いていました。
反面、学生当時に分からなかった印刷の仕組みや、DTP(=ディスプレイと印刷物の色合わせの技術)についてずっと勉強していました。
一応、Cintiq買った直後は試運転ついでに、その時ハマっていたDMMのオンラインゲームの同人誌なんか出してみたのですが・・・。まぁ、気まぐれに参加したコミケなので、6部売れたに留まりました。
回顧録:就職活動のツケ。(軽度)うつ病の発症
潮目が変わったのは入社してから4年半後、プログラミングの仕事を外されて、品質保証という、当社製品の品質を管理する部署に異動した後です。
(離れてから気づいたのですが)プログラミングの仕事は基本的に自分で勉強して、プログラミングスキルを上げていかなければいけない職種だったのですが、正直そんな勉強をするよりも印刷技術の勉強やオンラインゲーム、上記のラッパ隊の方が楽しく、何より「プライベートの時間を仕事に使うなどもってのほか」、という考え方でしたので、一切勉強しませんでした。
その結果、いきなり部長、課長に呼び出され、「お前はこれから品質保証の仕事をしろ」と異動命令を受けたのです(まぁ、異動前に1カ月の時間はありましたが・・・)
当時は「品質保証」という仕事がどのようなものか全く理解できず「はぁ。」という生返事しか返せなかったのですが、異動してからが大変でした。
当社では私が担当していたソフトウェアのほかに、ハードウェア製品も扱っており、全く畑違いの、ハードウェア製品の品質保証を任されたのです。
それまで4年半働いて曲がりなりにも仕事の仕方や、部署のルールが分かってきたのに、本当に新人と同レベルに「訳が分からない」環境に放り出されました。
しかも、その環境に放り出されて初めて知ったのが、「世の中の人はPCを有効活用しておらず、力技で物事を解決している」と言う事。。。
元々虚弱体質、仕事大っ嫌いで、さっさと帰りたい(orラッパの訓練行きたい)ところに、異動後ガッツリ30~40時間オーバー/月の残業がしょっちゅう発生しました。
結果、精神的に負担がかかって、異動してから2年後に壊れました。
当時は自分の心にひびが広がるような、会社に行くたびに、会社の駐車場に車を止めるたびに、心にぽっかりと穴が開くような、「Bleachの『虚(ホロウ)』になる」ってこういう事なのかな…という、なんとも言えない空虚感、それに、「自分が壊れてでも仕事を完遂しないといけないのか」という虚しさが日に日に強くなっていったのを覚えています。
端から見ると、残業時間は「大したことない」「それくらい普通」の時間なのかもしれないのですが、おそらく「そもそも仕事が全然私の適性に合っていなかった(+周りのサポートも十分に受けられなかった)」のが一番大きな原因でしょう。
それまでプログラミングの仕事をしていた時は、それくらいの時間残業していられましたから。
実際、こうなってから、いまだに私は「完治」はしていないと思います。
残業時間が10時間を超えると当時の「うつ状態」に戻ってしまいますから。。。
ただ、今は当時の部署からまた別の部署に移り、「ソフトウェアの品質保証」を受け持つことによって、毎月1桁の残業で仕事を十分に回せるようになりました。
(というか、その生活を続けないと会社辞めるレベル・・・次に鬱病になったら辞める覚悟をしておりますので、逆に必死です)
いずれにしてもこうなって初めて、やっと今の私に繋がる流れが出来たのです。
回顧録:自省、そしてイラストレーターを目指し出す
そろそろこの記事も終わりますが、もう少しだけこの後のことを書いておこうと思います。
ここから先は「やってよかったこと」の内容と少し重なってくるはずですが、その選択に至るまでの事を書いておきます。
うつ病を発症した後、自社の相談窓口や当時の課長とも色々と話をしました。
課長に感情をぶつけられて、泣かされたこともありました。
(まぁそこで課長も「あ、こいつマジでヤバい」と気づいたようでしたが・・・)
ただ、そうやっていろいろな人と話をしていく中で、「本当は自分は、何をやりたかったんだろう?」と考えるようになりました。
この疑問を持つに至った課長の以下の言葉には今でも感謝しています。
「俺(課長自身)は今、(御倉)の言葉を聞いてて、『この会社で何がしたい』ってことが1つも出てこなかったことが心配なんだ」
この言葉を聞いて
「自分は本当は、『何がしたかったんだ』?」
と考え始めました。
当時3カ月ほど本を読んでみたり、「やってよかったこと」で書くつもりですが、ジュリア・キャメロン著「ずっとやりたかったことを、やりなさい」で紹介されている「モーニング・ページ」(これはうつ病を自覚してからずっと書いていました)を書いたりしてみましたが、一番効果があったのは「やりたいこと 見つからない」か何かのキーワードで探した1つのホームページに書かれていた一文でした。
(改めて探したのですが、どのページかわからなくなってしまいました)
いくつか「やりたいことが分からない」原因が書かれていたのですが、その中に
「本当にやりたいことを隠していませんか?」
という一文がありました。
この文章を見た瞬間、自然と就職活動をした時の記憶が一気に蘇って、「本当にやりたいこと」が分かりました。
「・・・あっ・・・イラストレーターだ・・・」
同時に、就活していた当時、自分でも気づいていなかった小さな嘘に気づきました。
つまり、当時は
「自分が描いた絵では他人を笑顔にできない」
前提で話をしていたのです。
冷静に考えてみればこれはおかしな話です。
確かに「当時の技術では」できなかったかもしれませんが、「そのまま描き続けて、プロレベルのイラストを描ける」状態になるのが私の望みでした。その段階まで行ってもなお、「誰一人として笑顔にできない」のか。
これは、実証しなければ結論が出ないはずの結論なのです。
(というか、今改めてこの回顧録書いてたら、「コミケで13部捌けたのはどう説明するんじゃい」て話ですが。。。少なくとも13人に「欲しい」と思わせられましたし、その後残部を友人に配った際も友人は爆笑していました。笑顔にできてんじゃん、と。)
(当時はそこまで気づいていなかったので)そこで、「実証実験」することにしました。
実験テーマは
「本当に私はイラストレーターになることはできないのか」
まぁ、結論、曲がりなりにも「イラストレーター」を自称する程度の自信はついたので、「なれたんじゃね?」という気はしていますが。。。
「イラストで食う」ところまではまだできていないので、道半ば、という感じですね。
そして、同時に決意したことがもう1つ。
「俺を壊した会社なんぞ、辞めてやる」
まぁ、今でも働いてますけどね、その会社で。ただ、それは単純に「イラストで食う」ことが実現できていないから、生活のためと割り切って続けているだけです。
ぶっちゃけ「いつ辞めさせられてもいいや」と割り切って仕事をしています。
だからこそ、「イラストレーターとして生存するため」のサブとしての「資産形成」にも取り組み始めました。
(もっともこれは、この件からしばらく後になってからですが・・・)
終わりに
ここまで長々ととりとめもなく書いた回顧録、読んでいただいて本当にありがとうございました。
次回の記事からは、「イラストレーターになるためにやってよかったこと」や、「イラストレーターとして食っていくためにやっていることで、自分の生活が変わったこと(=きっとイラストレーターとして独立するために前進できていること)」を紹介していきます。
ここまで合計13000文字オーバー。この超長編記事の最後に何人たどり着いたことやら。
「俺は/私は たどり着いたぞ!」という方はコメント or スキ!を残していただけると、「スゲェ!本当にありがとうございます!」と感激するので、是非よろしくお願いします(笑)
次回の記事をお楽しみに。