手話ということ。
生後6か月失聴の後、昭和55年8月に障害認定を受けた。
その後ろう学校のことばの教室を週に1回母と通い、3歳からはろう学校幼稚部へ入部となる。週4回の言葉を覚える、訓練する。週1回は保育園での社会交流を学びつつ育ってきた。
幼少時に母の実家に農業アルバイトとして雇っていた住み込みのおじいさんがいた。私と同じで耳が聞こえなかった。当時は同じ聞こえない人がいるんだ~。ぐらいしか思わなかった。その後母の実家の隣の家もろう者夫婦が住んでいたことも本当に身近なことである。隣の家は手話が中心だった。陽気で明るいおばちゃんと物静かなおじさん。二人の会話は手話で話し、私に対してはゆっくり身振りで話してくれた。その時から手話のことばのシャワーを浴びていたんだなと思った。
その後私が高校の時に本格的に手話を身につけた。当時は星の金貨、愛していると言ってくれのドラマがあり、手話ブームとなっていた。手話サークルは人があふれ、平均50人以上いたような気がする。そのおかげもあり、読み取る能力は身に着いたものの、手話はまだおぼつかない。高校2年の時に手話スピーチコンテストがあり、手話サークルに入って3カ月で3位という快挙を得てしまったのである。当時は声を出しながらの手話なので、過去に葬りたい作品の一つでもある。当時の手話はまだ言語ではないというのが日本での主流だったこともある。しかしアメリカではもうすでに生まれる前から言語であると言われてきた。そしてようやく日本にも入ってきたのが、国連の障害者権利条約の中に、「手話は言語である」という文言が入ってきたことをきっかけに1つの言語として確立していく。
言語学的にに手話はまだまだ発展途上でありながらも、様々な研究がおこなわれてきている。当時は日本語と手話の両方を使いつつ言語獲得していったのだが、今でも日本語は使い慣れていない部分もある。日本人だからであっても、そこの部分ではなく、音声言語的に耳に入らないため、日本語構造的にわからないことが多い。
それでも多くの発見がある。例えば、出身高校はどこですか? という日本語があるとしよう。手話に変えて、日本語のままでやった場合、このようになってしまう。
/生まれる/高校/どこ?/
何か、違和感感じないのだろうか…。そう、/生まれる/の部分である。この /生まれる/の部分の意味の使い方としては、生まれるであって、出身は使えないのである。では、どのように表現するのか。
/卒業/高校/どこ?/
これならば、どうだろう。これが手話である。文法構造的にも違うこともあるが、いずれまたお話しすることにしよう。
だから、手話通訳者も考えて伝えなければならないことが起きることがお分かりだろう。つまり、言いたいことは手話も言語であり、翻訳者が必要だし、通訳者も必要になってくる。そのままの日本語では言いたいことが伝わらないことが多い。
話を戻して、私が手話を必要ということ感じたのが運よく幼少時代に見たろう者夫婦の会話から、私の人生に必要なものだと感じていたことも本当に早い受容だったことがわかる。
懐かしい話をしよう。
大学はつくば国際大学を卒業した。当時のゼミ担当でもあった、上野益雄先生の研究室に毎日遊びに行きながら、先生が持っていた「手話ジャーナル」のビデオの読み取り練習していた時、先生からいつも言われることがある。「この意味どういう意味で使うの?」と…。その時から先生にいろいろ説明をしてきたのも、ここで説明をする訓練をしてきたから、今も意味の解釈や使う範囲など説明できるおかげなのだと思う。つまりもうこの時に日本手話という技術を身につけたのも上野先生のおかげでもある。今もある「関東聴覚障害学生懇談会」という組織がある。当時いた仲間たちと10年ぶりにあった時に手話表現が変わったと言われることも多い。それもそう。最初に入った手話サークルでも言われる始末。つまり日本手話は先ほどにも言ったように文法もあり、文脈もある。手話スピーチコンテストでの声あり手話とは違った表現に変わったということである。
それはどうしてか。「私の人生に手話は必要だから」と改めて思った。