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分かるということについて ー ローマの古代遺跡でのこと

何かを分かるということ。皆さんにとって、それはどんなことを意味しますか?どんな時に、「あ、分かった!」と顔が輝きますか?また、どんな時に「分からない」と頭を掻きむしりますか?何かを「分かる」って、一体どういうことでしょう?日常の体験から、そんなことに思いを馳せてみます。

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2019年10月、私はイタリアのローマにいた。人生初の、3か月のローマ滞在、その最初の月。

ローマで初めて訪れた古代遺跡は Portico d'Ottavia(ポルティコ・ドッタヴィア)とそれに隣接する Teatro di Marcello (テアトロ・ディ・マルチェッロ)だった。古代ユダヤ人居住区域の端に、チベール川に向かってひっそりと建つこの遺跡を初めて訪れた時、その姿があまりに周囲の建物群に馴染んでいるので、危うく見落とすところだった。

古代遺跡。私はそれまでどれほどの古代遺跡を訪れたことがあっただろうか。青森県の縄文遺跡、三内丸山遺跡と埼玉県の古墳時代の遺跡を訪れたくらいだと思う。後は全部、教科書や本の写真で見たか、テレビで見たか、博物館で見たか。

というわけで、 Portico d'Ottavia の前に立った時、私はまさに生まれて初めて、古代ローマの遺跡を生で目にしたのだった。

私はまず、そこに立ちながら、一体どうやってこの遺跡を味わったらいいのだろう、と戸惑った。

古びた石柱を目の当たりにしながら、でもそれがそこら辺に転がっている単なる古びた石とどれほど年月を隔てているのか、実感が湧かない。階段を降りて、遺跡の中へと入ってゆく。途中にある解説を読み読み、少しずつ奥へと進んでいく。想像力をたくさん使う。解説を読んでは辺りを見回して昔の様子を想像する。また解説版を見る。その繰り返し。ゆっくりゆっくり遺跡の中を進んでいく。すると、だんだんと時間の距離感が湧いてくる。当時の人々の様子がおぼろげに見えてくる。それにつれて、だんだんと目の前に見える景色も変わってくる。この石柱をどんな風に見たらいいのかが、自分なりに分かってくる・・・。

出口へ辿り着いた時には、4時間近くの時間が経過、私は息も絶え絶えだった。でも、元来た道を引き返して最初の入り口に立ってみると、そこから見える景色はまるで違っていた。遺跡の一つ一つのアイテムが自然と目に入り、もはや戸惑う感覚はなかった。

それ以降、3か月間のローマ滞在中、私はいくつもの古代ローマの遺跡とそれにまつわる博物館を訪れた。時代感、古代ローマの有名な人々の名前、建築用語などが肌に馴染むにつれ、遺跡を前にした時、それに向かってどのようにはたらきかけたらいいかが分かってきて、初めての対面でも戸惑う感覚がなくなっていった。

何かを分かるとはー。それを自分の中でどう位置づけたらよいかが分かるということ。自分が既に知っているものとどう関連付けたらよいかが分かるということ。そして、その対象に向かって、どんな問いかけをしたらよいかが分かるということ。

つづく。


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ーPortico d'Ottavia から Teatro di Marcello へ向かう途中の石柱。何かが分かるとは、自分が既に知っているものとどう関連付けたらよいかが分かるということ。

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