西成のおっちゃんにリスペクト!
今朝の「こころの時代」は文化人類学者の猪瀬浩平さん。タイトルは「すれ違う こすれ合う」
猪瀬さんの兄良太さんは知的障害を持っていて、時折自分の声を確かめるように大声を響かせるそうです。そしてとても手先が器用。猪瀬さんは良太さんをわからないけど共に生きる他者として見つめてきたといいます。
「兄がどうやって世界の中で生きてきてどういうふうに表現しているのかみたいなことに触れることで、ある意味、じゃあ僕は世界をどう理解しているのだろう。じゃあ自分はどうやって世界の中で生きているんだ?みたいなのが見えてきて、彼がいることで自分の世界の見方を考えることをさせてくれている人」
良太さんのことをこう語っています。
幼い頃から両親に連れられ障害者運動の場にいた猪瀬さん、障害のある人たちのそばで生きる自分と世間からの視線とのギャップに戸惑っていたと言います。(宗教二世の私にはこの気持ち何となくわかります。当たり前とか普通という感覚が世間と違うということを子どもながらに感じ蔑視されてる気がして傷ついてしまうのです)そして障害者運動の人たちと距離を置き離れて行ったそうです。そして、生まれ育った環境を離れ自分の世界を切り拓こうと大阪の大学に進学し自分たちと異なる文化を持つ人たちを見つめることで人間とは何かを考える文化人類学という学問を選択、世界を旅し訪ねたウズベキスタンで「何で日本人はこの国に来るんだ。お前らの国には見て考えるべきものが何もないのか?」と問われたそうです。「ない」と言ってしまえば楽だったけど、そこで「ないのか?いやあるはずだ」と思って考えた時に思い出したのは小学生のころの障害者運動の時に見ていた人たちだったそうです。車椅子に乗っていた人や必死に訴えていた人などなど。自分が生きてきた環境の中に立ちかえるべきものがある、そう考えた猪瀬さんは大学院で文化人類学を専攻するために地元に戻ったそうです。そこで研究テーマに選んだのが障害、猪瀬さんは障害者が社会とどう関わってきたかを調べようとしたそうです。その時、大学院の教授から
『あなたが対象にしているのは「内なる他者」なのだ』という言葉を託されたといいます。
猪瀬さんは大学院に通いながら週2日、良太さんが働く農園で農作業を共にするようになり、良太さんをもっと知りたくて知的障害や自閉症について積極的に勉強し知識を増やしていったそうです。そんな猪瀬さんの考えを大きく揺さぶる出来事が。2007年良太さんと共に大阪・西成を訪れたときのこと。日雇い労働者が多く集まるあいりんセンターで良太さんが突然大声で叫んだそうです。そのときその場にいたおっちゃんが「お前何大きな声出してんねや!」と怒ったそうです。その時のことを猪瀬さんはこう話します。
「でもその怒り方がよくて、俺も叫びたい気持ちがある中で精神障害がある中で叫ばずに頑張ってやってるんや。お前も頑張れや。みないな感じで、なんかうるさいから静かにしろとかなんか変な奴がいるとかじゃなくて、俺もそう言うものを抱えて生きてて、でも叫ばないでいるんやで、というのを本気でもう怒ったんですよね。そしたらその後、兄はホントにずっとそのあと三角公園とかいろいろ回っていくんですけどその間ずっと黙ってて。なんかあの本気というのか、本気で言っていいっていうか、本気で言っていくと伝わるというか。言ってるおっちゃん側も治療者とかボランティアじゃなくて同じように叫びたい気持ちを抱えている人間として向き合っている場面があって、苦しさを誰もが抱えていてその苦しさみたいなものを共有しているもの同士だからこそ伝わる言葉がある」と。
一般的に怒るというのは感情をぶつけることで、叱るというのは口で諭すということらしく、その動機については、怒るは自分のためで叱るは他人のためだと。そうなのかなぁ。西成のおっちゃんは良太さんのために叱ったのだろうか?絶対違う。怒りの感情をぶつけてる。ただ、自分の気が済むために怒ってはいない。同じ苦しみを持つ同士としての共感を込めた言葉と感情を相手にぶつけたのだと思う。それが良太さんの心の琴線に触れた。だからその後大声をあげなかったのだと。あの場面で冷静に諭しても良太さんに響いたとは思えません。叱るのはいいけど怒ってはダメという価値感があります。だけど、この西成のおっちゃんの行動って思いやりと愛をまとってて、ダメな行為じゃない。それどころかめっちゃカッコいい。共感する心…私の不得意分野です。なのでこんな風に人に対して怒れるハートの熱さに感動するのです。私は苦しみを持つ人を目の前にしたとき共感や思いやりを乗せた言葉を熱く投げかけることが出来るだろうか……,
猪瀬さんはこの西成での体験を土台に、自分は今まで兄とどう向き合ってきたのか、内なる他者としての自分自身を問い直していったそうです。
大学院の教授から「あなたの研究対象は内なる他者だ」という言葉を託された猪瀬さん。つまり外側にいるお兄さんや他者ではなく、自分の内側にいるものが研究対象なのだと。猪瀬さんは自分の中に兄をただ兄として当たり前に見ている自分と、障害者というフィルターを通して見ている自分、この2つが内なる他者として見えてくるのだといいます。この2つを拮抗させながら考え、自分のなかにある他者に気づいていくことで、良太さんとの関係を捉え直していったそうです。自分と見てるものも感じていることも違うわからない他者をわかろうとするとき、(まあわかることはないのだろうけど)わかろうと関わっていく中で、相手のことではなく自分のことに気づいていく。そういうことなのかなと理解しました。
知的障害とはとか、パニック障害とはとか調べて規定して自分と違うものとして線引きして分離するのではなくて、西成のおっちゃんみたいに目の前のその人自身を理解しようと心がけて、見たり話を聞いたりして関わっていく、こすれ合うことで見えてくるもの、つくられていく世界に希望があるのかなと思います。
西成のおっちゃんにリスペクト!