いつの間にか評価の中にいた。
いつの間にか、評価というしがらみの中にいた。
これまでも、評価にとらわれることがあった。
けど今回はちょっとこれまでとは違った評価というしがらみ。
周りからのありそうでない評価
これまでは、周りからの自分に対する評価のしがらみがあった。
そんなことも気にするの?ってぐらいちっぽけなことも。
例えば。
一人で2泊3日、熊本に旅行に行ったこと。
POOLOというコミュニティにいること。
コーチングを学んでること。
自己投資で高いお買い物をしたこと。
こんな、私のアイデンティティでもありそうな、
自分がワクワクしてやってることも
私は人に言うには勇気が必要だった。
知って欲しい。
けど、知られたくない。
そんな狭間にいた。
私とはこう言う人間だ!と堂々としたい一方で、
変な人って思われるんじゃないか、
人から理解されないのじゃないか
とか。
たくさんの周りからの見られ方を気にしてきた。
でも、最近は
どんな自分でも私。
理解されなくても大丈夫。
私が私を受け入れることが少しずつ進んできた気がする。
そして今。
人への期待と失望
人に対してめちゃくちゃ評価している自分に気づいた。
新しい環境の人と、
丸3日間時間を共に過ごす時間があった。
すごく客観的なのか、はたまたとっても主観的なのかわからないけど
「この立場の人はこう言う人に対してこうすべきでしょ」
「これに対して何も感じないんだ」
とかとか。
すでにある環境に新入りとして入った人への関わり方をすごく私なりの、
こうあるべき論に当てはめて、
全然当てはまらないことに勝手に失望をしていた。
そして、この人はいい人だとか、
この人はこの場面でこうする人とか、
たくさんレッテルを貼りまくっていた。
それは幸せなの?
組織を俯瞰して見ていたつもりの
私をふと、夕陽を見ている時に
俯瞰して見ることができた。
でもそれって幸せなのかな。
勝手に私のこうあるべき論に当てはめて、
それに反する行動を評価し、
勝手に失望を繰り返す。
4ヶ月前に感じた大切なこと、忘れていた。
みんな違ってみんないい。
私の大切にしたい言葉。
私のあるべき論も必要だからいたんだけど、
手放せるといいなぁ。
〇〇が△△してくれないんだ
〇〇もできないんだ
から
私は何を望んでいるのか
そのために、
私はいろんなみんなの中でどう関わると良いかな
を大切に。