もう既にゴール(^^♪ ①
以前あげた記事
に似ているのですが
補足です。
自分とは常にどこかに向かっている。
充たされることを願い 何かし続ける。
自分では止まることができない。
時空間を持つ=自分
可能性を見るとは
意識が過去と未来に在って
今を否定した状態である。
例えば
もっと 何かできた
もっと 何かしておけば
もっと 豊かに
もっと 知的に
もっと 幸せに
もっと 有名に
もっと もっと もっと…
今でない何かを得ようと
今でない何かになろうと
それは 同時に
今での環境ではダメだ
今の自分ではダメだ
今の感情はダメだ
と 否定し続けます。
つまり
今を否定し、今をごまかす事こそが
「自分が生きる」主旨だからです。
私が生きてきた?生きてるという勘違いの
数十年だけでも
こんなにも社会は
便利になり 成長しているのに
幸せな人が こんなにも少ない。
日本に関しては こんな社会に絶望して
自殺される若い方が後を絶たない。
こんなにもみんな平和を願っているのに
戦争が絶えない。
実は 何かが不足してるわけではなく
この今に対する居心地の悪さの根源は
自分という制限。
自分という檻。
自分という巣。
自分という分離。
自分という安住の地。
これら制限があるという 勘違いが
不足感そのものだった。
自分が居るという勘違いが
同時に不足感も起きてしまうのです。
(離せないセットです)
自分という制限がある限り
残念ながら
真の安心、リラックスはありません。
私自身 ものごころついた頃から
大人同士の争いを目の当たりにし、
力に屈して
仕方ないことだと諦め、片づけ、
それに巻き込まれ、
いつの間にか 自分もそれに
染まってしまっていました…
私にも子供が生まれ
安心できるはずの 家庭内でさえ
何故か居心地悪く
子供たちを追い詰めてしまうまで
この疑問を
見ないふりをしてきました。
子供ため 家庭のためと
正しいと信じて
しつけだという大義名分で
時間、挨拶、礼儀、約束など
やたらと 制限を子供たちに
押し付けてしまった記憶が
起きてきます _| ̄|○💦
猛省が起きてきます。
子供が まだ小学校低学年のころ
一家で交通事故
実父の浮気疑惑と実母の認知症からの鬱
子供たちの学校でのいじめ問題
下の子の不登校
義母の過干渉
義父の病気などなど
次から次へと
負のオンパレード💣
もちろん ネガティブなことばかりでも
ありませんでしたが…
正しいと信じて
結構 できるだけ誠実で
まあまあ真面目に
生きてきた方です(笑)
真面目に生きてきた割には
報われない感じが否めない。
なのに 何が起こってるのか?
才能がないのは仕方がないが
まだ 努力が足りないのか?
どこかで何か間違ったのかもと
本気で自分の人生を
振り返って行くが起きました。
知識だけでなく
実体験できないと意味がないと
思っていたので
多岐にわたった分野の
本を読みあさっては
実践していきました。
しかし
どのノウハウも知識もマニュアルも
多少は改善するも
これといった 確信が持てるものは
何一つありませんでした。
それもその筈なんです。
そもそも「自分が居る」ということにより
不足感が抱き合わせで 起きていたんです。
自分=無間地獄
原因は 自分という性 でした。
究極的には この原因もないのですが…
自分という制限の中で
どんなに居心地よくしようと もがいても
自分という感じがある限り
永遠に充たされないのです。
自分=矛盾だからです。
理由は(自分がある感じ=理由、価値、差など全てある)
①自分という制限が起こることにより
同時に自分以外が存在してしまうので
どんなに自分という制限の中を
安心安全にいそしんでも
そのほかの可能性があるため
安心安全をとどめておくことができない。
常に自分という檻を作ることは
同時に不安と隣り合わせを意味しています。
②自分があるという感覚と
同時に不安と隣合わせであるがゆえ
常にもっと良くなりたい。
つまり、エンドレスの欲求。
終わりがない。
そして、いつまでも牧場の中でグルグルと
自由がないような
何か分からない心地悪さが伴います。
③②より成長に執着する
同時に今を否定することが起きている。
つまり、
今を否定し続ける
=自分は永遠に今の安心安全は手に入らない
終わらない探求。
④過去や未来には幸せは存在しない。
想像、虚構、幻想でしかない。
今にしか 幸せは味わえない。
なのに、今を否定し、次に向かっているため
永遠に幸せを味わうことができない。
つまり 求めるものは 永遠の次。
自分=どこまで行っても真の幸せは感じられない
⑤分かるということがいい事になっている。
しかし、分かることは「分かつ」こと
なので 更なる分離をうみ
自分 VS 世界 の隔絶が強まる。
誰も分かってくれない など
見えない孤独との闘い。
終わらない分離。
分かれ続ける 不滅の不足。
⑥⑤より
自分があると同時に
闘いを意味する。
終わりのない試合をしているようなものです。
今を否定し続ける社会のその先は
否定しかないのです。
何か頑張れば 手に入ると思っているのかも
しれませんが、
もっとの先は もっとしかないのです。
対処の先は対処しかない。
完璧な終わらないゲームをしているようなもの。
しかも 健気かつ もどかしいのが
自分を愛するが故のジレンマ。
求めるほどに 本当に求めるものは遠のく。
一見 努力した先に富み、地位、名誉が
手に入ったように見える方もいるかもしれません。
しかし、その人たちはずっと同じ状態で
いるでしょうか?
世界トップで
何でも持っているように見える方でさえ、
知的好奇心や、刺激、開発の虜ですね。
どんなに豊かになっても
自分は永遠に満足することはありません。
おまけに世界の問題に見えることも
何一つ解決していない。
一見 解決したかのように見えても
同時に別の問題が現れる。
思い返してみれば
いつから自分はここに存在しているのだろうか?
いつの間にかこの身体を自分と認識している。
もし 上記のようなことに
終わりがあるとしたら?
もう少し長くなりそうなので
次回に続きます。
最後までお付き合いいただきまして
ありがとうございました。