freewriting#2:わかりやすさについて
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わかりやすい話 いやわかりやすさへの圧を
圧? 圧というよりは賛美みたいなものがふわふわとまとわりついてくるようだ. ファストなコンテンツが好まれ「よい」とされているような でも私はおもう.ひとがしるしてきたもので 社会に対し提示されたもので、それ そのもの以上に受け手によりそえないというところまでよりそった表現が残されているのであり、その程度は提示者によってちがうとしても いや当たりまえにちがうが それ その落としどころが心地よかったのだろう だから難解などとよんで それ以上 つまり提示された以上に他者がそれを(多くの場合)具現化や例示することには反対である.もちろん説明は必要だ 説明というより対話 たしかにそのあたりは論点である. そういういみでいうと古い 昔の 提示は本人との対話が叶わぬために 継承される言葉などが作品以外にもあっていいと思うのだが では現代ではどうか 発信者がすでに提示
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の段階で受け手に迎合していないか 迎合ではなく....迎合とここでいうのは言葉のあてはまらなさをあきらめて易しくしてしまうということを言いたい. が 迎合ではなく言葉をさがすことをしていないのであればさらに溝はふかいだろう 言葉をしらないことや 借りものの言葉のみであること. かなしいことである.言葉を自分で 提示者自身で定義をするというステップをふむことすらできないのである(皮肉). そういえば言葉は型だと思っていたが 私が想像していたよりもはるかに絵的なものであった. あいまいであった. 受け手と提示者=創作者どちらにも危機がおとずれているようだ 関係あるのか不明だが 私は動画がとくいではない. 表現方法としての魅力をあまり感じていない. スマホ 小さな四角 自分で画角やフレームを設定できないからかもしれない ズームもフレームアウト(?)も受け身である.
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視点に個性が出ない 受け手にまかされた範囲がせまいコンテンツといえるかもしれない. 映画ですらあきてしまう.フォーカスを強制されるのだ 意図がよく見えてしまう つくり手の意志がかなりつよい形をしている.ほかに苦手なコンテンツはあるか…? やっぱり基本的にはリアルが好きだ 演劇や音楽ライブ 演劇 リアルの作品には言語が多い 意図してもしなくても.言語が多いということは必然的にうけとる言語が受け手の個性によって偏るのである. 創作者が意図的につく語りかけた言語のみを考えても どのくみあわせで どれだけ受けとるかということが コミュニケーションの可能性を<その場で>規定してしまうのである. それをその伝達可能性の範囲内で. 創作者と受け手は対話をすることができるのである 一方で意図はない言語はいわばフィルターである(これがもしかすると私が
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輪郭とよんだもの…?)五感や経験にふかくねざしていてあまり変化しにくいであろうものである.対話をするとその意図せぬ言語の伝達すらあらわになるかもしれないな. そ この議論をしてみて あらためて. 映像.いや映像のというより"編集"<というのが正確(?)>のかもれないが 対話を前提としない表現である. あるいみでやさしく、あるいみで信じていないのである. わたしが創作や表現というときに内包したい いみが ここにあるのだと思う <①>「創作者の心地よいラインの"よりそい"」「<②>受け手のうけとる受信<∟きもい>するできる<可能性のある>言語の多さ広さ=受け手へのゆだね方る表現の幅」「<③>対話の想定・対話への意欲」 一方で①②をそなえながらも③をしない創作者もいるのではないか? もしそうであるならばそれは責任放棄ともいえる.
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①②は一応の選択肢だとしても③は責任である.社会と対峙するのならなおさらである.
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