四柱推命の絶と言う星
なんです。これでも。
これでもって言うのは、それについてほとんどアウトプットしてないのもあるけど、チラチラ鑑定もしてます。
以前は「鑑定を仕事に」と思ったりしてたけど、今はそれはないです。
#お金を稼ぐ
っていう視点で見てたからそう思ってたけど、その視点がなければどうしたい?を優先したくなりました。
#四柱推命
は自分のことを知りたいというのが大きかった。
#ホロスコープ
もそうだけど、自分のことを知りたい、それがそれらを学ぶ大きな要因だった。
#2020 .12.11 絶の勉強会
鑑定を仕事にはしなくても、もっと知りたいというのと、鑑定師同期のりなっちの説明がわかりやすいのと、星の新しい視点を提示してくれるので非常に興味深い。
それと毎回自分の持っているその星のリーディングをしてもらうことも、私にとって受講したいと思う大きなポイント。
今回のテーマは四柱推命でいうところの十二運星の #絶 という星。
いわゆる動物占いと同じで、それでいうと #ペガサス
りなっちのブログでもあるように、鑑定師講座でも #絶 は
★ 普通はつまらないと思う
★ 不安定が安定につながる
★ 気分にムラがあり過集中
★ 束縛を嫌い自由を求める
★ 天才かつジョーカーの星
かっこいいねー。天才とかジョーカーとかねー。
そういう目で見てました。
絶の人ってなんかかっこいいよねーって。
そしたら、私にもありました。
普通よく見る場所ではないところに。
時柱って一般的には #人生のゴールテープ と言われるように、そこに向かっていくと言われる場所なんだけど、
今回りなっちからその #絶 の話を聞いていたら、私の小さい頃、20歳以下の時のことを思い出したんです。
小学校の頃、女の子の集団の中で「なんでこんなことするんだろう、どうして私はここにいるんだろう」とすごく客観的に観ていたことがありました。
親と喧嘩すると、すぐに死んでやる、と言って家を飛び出していました(母が追いかけてきて何もなかったけど)
結婚は修行だと思って2回もしたし、
農家の長男は止めろと言われても結婚したし、
敢えてそこに行く?
みたいな環境を選びがちになるという、りなっちの説明で、そんな私の過去を思い出しました。
それこそが、#絶 なんだそうです。
20歳の頃に同棲相手に、お前は社会不適合だから俺みたいな人がいないとダメなんだと言われ、ベランダで号泣してからは、
社会に適合するにはどうすればいいのか、と自分なりに必死に生きてきました。
楽しかったこともあったけど、辛いこともたくさんあった気がします。
でもそれを、本当に死に物狂いで自分を乗り越えてきました。
電車に乗っていると、もういいや、と何度も思うこともありました。
でもそれらぜーんぶ
って思えたら、なーんだ星のせいか、って。
#時柱は幼少期も出る と、りなっちに聞いて、すごく納得しました。
世の中の色んなルールが大嫌いだった。
みんなと同じことするのが嫌だった。
そんな気持ちを思い出しながら、星を使っていたんだなと思うと、そんな自分が愛おしくなりました。
これからは、その小さな頃に感じていた #絶 をもう一度、たくさん満たしてあげたいと
りなっちの勉強会を受けて思うことができました。
りなっち、いつもありがとう。
そんなりなっちのリーディングをもらって、また近い未来、そうなるぞ!と意気込みました。
■世野雅緒さんの時柱【絶】からのメッセージ『ステージ上に立ってドレスを着て歌を歌っている雅緒さんのイメージ』
わたしは、自己認識と自分本来の性質にとても大きなギャップを感じていた人だと思う。
四柱推命で言えば、命式を知った時は全然ピンと来ないことも多かったし、星の意味と自分が結びつかなくて戸惑うことも多かった。
自分で自分がわからない。愛の人と言われても、具体的にわたしの何がそう認識させるのかがつかめなかった。
今は、輪郭が見えるようになったのでとても動きやすい。そして、わたしはわたしを喜ばせるための旅を続けている。
歌もその一つだ。自己表現のためにステージに立つなんて、これまでのわたしには考えられなかったことだ。
わたしは、自分にまだ体験したことのない世界を見せてあげたいと思っている。
観客の前ですべてをさらけ出した時、わたしは何を感じるのか。どんな光を目にするのか。どんな可能性が開けていくのか。それを知りたいのだ。
同時に、そんな自分を愛してくれる人の存在が目に入ってくるだろう。
わたしが全身全霊で自分に集中している時のエネルギーを感じて、関わりを持とうとする男性の存在が見えてくるだろう。
わたしは自分自身を表現しきった先に、ずっと追い求めていた魂の片割れと出会うのだ。
出会った時は、自然と距離が近づくことになる。すべての才能が花開いた時の女性の姿は、何者にも代えがたいほど美しい。
その美しさを磨き上げている今を、存分に味わうこと。
これまでの痛みや苦しみが布石となり、これ以上ない喜びに包まれる時がやってくる。
これが、わたしの人生をかけた極から極に至る自己表現なのだ。