(2024/11/06)2015年の真央ちゃんの復帰時に感じられていた「やばい」感じについて

いま思えば、真央ちゃんが2014年に休養に入る際に髪を切ったことと、一年後の復帰時に髪を「ストレート」にしていたことが、真央ちゃんの運命を暗示していたようだった。「カット」の時はまだ何とも思わなかったが、「ストレート」にしたことは、当時の状況と結びついて何か「不吉な」感じがした。

すなわち、2015年のあの秋頃に、タチアナ・タラソワがいなくなったことに対応するように、真央ちゃんには全体として「矯正されている」感じがあった。全体としてつまらない形に変えられつつある。「ストレートになった」髪がそのことを象徴しているようだった。その変化を私は全く歓迎しなかった。

2015年の競技への復帰時に、すでに私は「浅田真央選手」を応援する気をなくしていた。振付師が「ローリ・ニコルだけになった」こと、すなわち「タチアナ・タラソワがいなくなった」ことについて何の説明もなく、あたかもそれが「何でもない」ことであるかのように前に進もうとしているからだった。

「タチアナ・タラソワがいなくなったこと」は、真央ちゃんにとっても平気ではいられないことだったはずなのに、平静を装った。「強い真央ちゃん」のイメージが強く生きていたから。ソチオリンピックの記憶がまだ新しかったから。「復活」への幻想があった。その偶像崇拝の罠に人々ははまってしまった。

そのような「淡い期待」は私自身の心の中にあったものである。だから、当時の人々が心の底でやばさを感じていながら、それに「賭けた」心理がリアルに想像できる。「バブル」のようでやばい、ということはわかっていた。「薄い氷」の上を行くようであり、恐れていたとおり、それは「割れてしまった」。

2015年に真央ちゃんの競技への復帰が発表された時点で、そのやばさは感じられていた。「蝶々夫人」を読んだこともあって、映画「ラストサムライ」のことを私は思い出していた。その物語の結末のように、「勝ちの見込みのない走り」になることが「楽屋では(backstage)」予測されていた。

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