人生で初めて「泣いた作品」と「爆笑した作品」。漫画太郎と天野喜孝との出会い。
人生で初めて感動して涙を流した作品は何だったか。また、人生で初めて腹の底から笑い転げた(「爆笑」した)作品は何であったか。この二点が、その人の本質を「占う」ポイントになる、という気がする。これを私は10年以上前からずっと思ってきた。しかし、誰もこれについて語るのを見たことがない。
私はそれらの二つの体験のことをはっきりと覚えている。すなわち、私が初めて「泣いた作品」は、「ドラえもん」の「酒の泳ぐ川」というエピソードのアニメ版であった(アニメ版ではタイトルは別の表現になっていた)。小学校の中学年の時に、自宅の居間で、年末のスペシャルか何かで見たときであった。
そして私が初めて「爆笑した作品」は、漫画太郎の「珍遊記」の第一話であった。小学5年生の時に、買ってきた「ジャンプ」を居間の床の上で読んでいた時であった。腹がよじれるほど笑った。手で床をバンバン叩きながら。まさに「底が抜ける」感覚が体の奥であった。そのような歴史的な出来事であった。
「珍遊記」との出会いは、それほど深く衝撃的であった。「そのような表現」を今まで見たことがなかった、にもかかわらず、それをずっと心の底で待ち望んでいた、それがようやく現れた、と思う、あの不思議な感覚があった。
例えば、「珍遊記」では「建物」を描くのに定規を全く使っていなかった。それに深い衝撃を受け、新鮮な感動を覚えた。それがめちゃくちゃ面白くて笑った。「定規を使わなくてもいいんだ」という悟りを、漫画太郎は小学5年生である私に開かせた。実際、私はそれ以来、学校で一切定規を使わなくなった。
すなわち、算数や理科の授業で「グラフ」や「図」や「表」を描く際に、私は決して定規を使わないようになった。それは中学校でも、そして学生生活全体を通して一貫して続いた。そして今に至るまでそれは生きている。それほど甚大かつ深い影響を、漫画太郎は「珍遊記」によって私の人格と人生に与えた。
「珍遊記」との出会いによって、私は、それまでに見たあらゆる「漫画の絵」に対する自らの「不満」の感情に気づいた。俺はこういう「雑な」絵が見たかったんだ。それなのに、描く奴はどいつもこいつも同じような「きちんとした」絵ばかり描いていてつまらない。こういう心の声が私の中で聞こえ始めた。
天野喜孝との出会いも、ほぼ同じ頃だった。「ファイナルファンタジー4」が出た小学6年生の夏までには、その「すごい絵」を完全に好きになり、描いている人の名を知り、完全にファンになっていた。その年(1991年)の9月に出た『天野喜孝空想画集 DAWN』は本屋で予約して、発売日に買った。
プロの絵描き、本物の画家というのは、「こういう線」で描くものなんだ、というのを、小学5年生か6年生の私に悟らせたのが、まさに天野喜孝であった。そういう「刷り込み」がなされた。すなわち、私にとって天野喜孝が完全に「親」になった。
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私が今日のこれを書き始めることになったのは、坂口恭平のツイッターで「サケ」の絵を見たからであり、そして千葉雅也のツイッターで『センスの哲学』についての人々のコメントを見て、天野喜孝について語りたくなったからであった。