「二つの異なる線」が「一つの体の中でともに生きる」のが真央ちゃんの魅力であった。だから、それをわかって「愛する母」は二人の異なる振付師が真央ちゃんに付くようにした。しかし、2015年以降に「愛さないマネジメント」は勝手に「一つの線だけでやる」ようにした。この不忠実さが問題である。
ローリ・ニコルも「自分の色だけで真央を染め上げる」ようなことは望んでいなかったはずである。一流の人間とはそういうものである。タチアナ・タラソワも他のコーチたちも、真央ちゃんが「他の人たちとの共同作品」であることをわかっていた。しかし、凡庸な「マネジメント」はそれをわかっていない。
そもそも「誰かを自分の色で染め上げる」という発想をすること自体、凡庸なナルシシストの特徴である。そしてそのような「支配的な」二流の人間は、自らの願望を他者に投影する。一流の人間も自分と同じく二流の願望で動いているものと思いなす。だから彼らは一流の心を正しく理解することができない。
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佐藤優の『国家の罠』で書かれている、鈴木宗男がリトアニアのランズベルギス大統領に対して杉原千畝の話題を提起した際のエピソードが念頭にある。それを引用する。
私は2015年のあの秋頃に真央ちゃんの状況を見て、その文脈でこの話を思い出していた。鈴木宗男の「一流の政治家とはそういうものだ」という言葉のことを何度も思い返し、そのような「一流」の人物として第一にタチアナ・タラソワが私には思い浮かんでいた。そうして人を「見誤らない」ようにすることを今までずっと心がけてきた。