「愛さないマネジメント」のもとで真央ちゃんに「二つの線」が生きなくなった

「二つの異なる線」が「一つの体の中でともに生きる」のが真央ちゃんの魅力であった。だから、それをわかって「愛する母」は二人の異なる振付師が真央ちゃんに付くようにした。しかし、2015年以降に「愛さないマネジメント」は勝手に「一つの線だけでやる」ようにした。この不忠実さが問題である。

ローリ・ニコルも「自分の色だけで真央を染め上げる」ようなことは望んでいなかったはずである。一流の人間とはそういうものである。タチアナ・タラソワも他のコーチたちも、真央ちゃんが「他の人たちとの共同作品」であることをわかっていた。しかし、凡庸な「マネジメント」はそれをわかっていない。

そもそも「誰かを自分の色で染め上げる」という発想をすること自体、凡庸なナルシシストの特徴である。そしてそのような「支配的な」二流の人間は、自らの願望を他者に投影する。一流の人間も自分と同じく二流の願望で動いているものと思いなす。だから彼らは一流の心を正しく理解することができない。

佐藤優の『国家の罠』で書かれている、鈴木宗男がリトアニアのランズベルギス大統領に対して杉原千畝の話題を提起した際のエピソードが念頭にある。それを引用する。

鈴木宗男と杉原千畝

 私は2002年6月4日に背任で起訴され、同年7月3日に国後島ディーゼル発電機供与事業を巡る偽計業務妨害で再逮捕されることになる。この間、まる一ヵ月の間は、西村検事の任意取り調べに応じるとともにこの機会を利用して、「国策捜査」の本質を理解すべく努力した。まさしく、「餅は餅屋」だ。西村氏にとって私が日露外交についてのよき「教師」であったように、私にとって西村氏は国策捜査の内在的ロジックを捉えるための最大の”教師”であった。この学習の成果を私は論文にまとめようと考えた。
 私は岩波書店の発行する月刊誌「世界」の「世界論壇月評」にロシアの新聞論調について毎月寄稿していた。まだ、逮捕される前の三月末に「世界」編集部の人たちと一杯やりながら話したことがある。私が「どうも周囲の空気がおかしい。多分、六対四の確率でパクられると思う。次に会うときは、東京拘置所の面会室だ」と述べたところ、ある編集者が「そのときは是非獄中手記を書いてもらいます」と答え、私も了承した経緯があった。
 拘置所に収監されてからも岩波書店の親しい編集者たちからは何度も心のこもったメッセージをもらった。特にある編集者から弁護人経由で司馬遷『史記列伝』(岩波文庫)が差し入れられたが、このアプローチは私の琴線に触れた。「史記の世界とくらべれば私の周辺に起きたことなどは矮小なことだ。そうだ、歴史にきちんとした記録を残すことが私が今後なしうる唯一の社会的貢献なのだ」と思った。
 私は、西村検事とのやりとりを踏まえた上で「現下の所感(02年6月22日付)」と題した手記を書き上げた。この論文は弁護人とよく相談した結果、公判対策上の観点から寄稿を見送ることになったが、弁護人や検察官に私の国策捜査観を伝える上では有益だったと思う。
 この手記で主張している多くの部分は、これまで述べてきた内容と重複するので、ここでは紹介しないが、ユダヤ人問題に関連して私が論文の中で紹介した鈴木宗男氏と杉原千畝のエピソードを引用したいと思う。
〈1991年8月、ソ連共産党守旧派によるクーデター未遂事件後、バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)の独立が各国により認められ、同年10月、日本政府もこれら諸国との外交関係樹立のために政府代表を派遣することになった。そして当時外務政務次官をつとめていた鈴木宗男が政府代表に命じられ、在モスクワ日本大使館三等書記官として民族問題を担当していた私が通訳兼身辺世話係として団員に加えられた。鈴木との出会いが後の私の運命に大きな影響を与えることになろうとは、当時は夢にも思っていなかった。
 鈴木は、杉原千畝(すぎはらちうね、イスラエルではセンポ・スギハラと呼ばれることが多い)元カウナス(当時のリトアニアの首都)領事代理が人道的観点からユダヤ系亡命者に日本の通過査証(ビザ)を与え、六千名の生命を救った史実に大きな感銘を受け、当時の外務省幹部の反対を押し切り、杉原夫人を外務省飯倉公館に招き、謝罪している。外務本省は、訓令違反をし、外務省を退職した外交官を褒め讃える鈴木の言動に当惑し、この話題がランズベルギス・リトアニア大統領との会談で提起されることを警戒していた。
 私は別の観点から杉原問題をランズベルギスに提起することには反対だった。実はランズベルギスの父親は親ナチス・リトアニア政権で地方産業大臣をつとめ、ユダヤ人弾圧に手を貸した経緯があり、また、1991年時点でのランズベルギスを中心とするリトアニア民族主義者とユダヤ人団体との関係もかなり複雑だったからである。私は鈴木にランズベルギスの背景事情を説明し、杉原問題を提起することは不適当であると直言した。鈴木は私の意見によく耳を傾け、しばらく考えた後にこう言った。
 「佐藤さん、ランズベルギス大統領は、ソ連共産全体主義体制と徹底的に闘って、リトアニアに自由と民主主義をもたらした人物である。それであるならば、杉原さんの人道主義を理解することができるよ。一流の政治家とはそういうものだ」
 鈴木はランズベルギスとの会談で杉原問題を提起した。ランズベルギスは「命のビザ」の話に感銘を受け、カウナス市の旧日本領事館視察日程を組み込むように同席していた外務省儀典長に指示するとともに、ビリニュス市の通りの一つを「杉原通り」に改名すると約束した。私は一流の政治家が大所高所の原理で動く姿を目の当たりにし、少し興奮した。
 この話は、イスラエルやユダヤ人団体ではよく知られている。内閣官房副長官時代の鈴木が小渕総理訪米に同行したとき、シカゴの商工会議所会頭が「杉原ビザ」の写しを示し、「私はこのビザで救われました。あなたがその杉原さんの名誉回復をしてくれたのですね」と話しかけてきたとのエピソードを鈴木は私に語ったことがあるが、イスラエルの外交官、学者が鈴木をユダヤ人に紹介する際には「鈴木宗男さんがセンポ・スギハラの名誉回復をしました」といつも初めに述べるのが印象的だった。鈴木のイスラエル、ユダヤ人社会における高い評価は、私たちがテルアビブ大学との関係を深める際にも大いに役に立った〉

佐藤優『国家の罠』(新潮社、2005年)284-286頁

私は2015年のあの秋頃に真央ちゃんの状況を見て、その文脈でこの話を思い出していた。鈴木宗男の「一流の政治家とはそういうものだ」という言葉のことを何度も思い返し、そのような「一流」の人物として第一にタチアナ・タラソワが私には思い浮かんでいた。そうして人を「見誤らない」ようにすることを今までずっと心がけてきた。

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