【映画ギヴン考察】村田雨月の「手」とマグカップ(ネタバレ)
待望の映画ギヴン、観てきた。
原作4〜5巻の内容はきっとアニメ化されないと諦めていたので、とにかくこのエピソードを映像化してくれたことに、ひたすら感謝する1時間強だった。
大人組の恋模様については、一年ほど前に考察記事を書いたのだが、映画版を見て、また改めていろいろ考えたいことがあったので、書き連ねてみようと思う。
前回の記事を踏まえての内容となるため、未読の方はご一読願いたい。
いつも通り、大変なネタバレ、勝手な妄想や解釈を散らかす予定であるので、不快に思う方はUターンをお願いしたい。
ちなみに今回は村田雨月を中心に考察するつもりである。
1.原作と映画の違い
これは私だけの感覚なのかもしれないが、映画ギヴンは、僅かながら雨月に重心がおかれている気がする。もちろん、春樹もちゃんと描かれてはいるのだが、あくまでも感覚の話である。
漫画から映像になったことで、印象が変わった場面が多いのが、雨月なのかもしれない。
それはたとえば、マグカップのエピソードであり
帰国した雨月と秋彦のふれあいであり
最後に握られた手の動きであり…
そこから垣間見えたのは、天才の葛藤というか、才能の代償のようなものであるように思う。以下、二つの場面について考えていく。
2.重なる春と雨―「手」
原作では全く気がつかなかったことがある。
それは秋彦と雨月、秋彦と春樹のベッドシーンについてである。(それなりの話題なので、以下閲覧注意)
それぞれ確認していこう。
雨月とのベットシーンが描かれるのは、彼が帰国した直後のこと。寝ている秋彦のもとに雨月が寄り、それを反転させて秋彦が雨月を押し倒す場面である。春樹の時よりは幾分かマシだが、秋彦は結構強引である。
© キヅナツキ・新書館 より引用
雨月を押し倒した秋彦は、雨月の手のひらに指を沿わせて、そのあとさらに欲情しているようなのである。
もちろんその「手」は、天才的な音色を奏でる「手」。秋彦が嫉妬し、憎み、憧れ、焦がれる「手」である。
続いて春樹。みなさまご存知の通り、強引というか無理矢理である。原作ではそこまでではないが、押し倒す流れ、触り方、構図など、かなり雨月の時と重ねられていたのが映画版である(未見の方はぜひご注目いただきたい)
ここでもやはり「手」がポイントだ。
雨月の時とは逆に、春樹はその「手」で秋彦の左手、そして顔に触っていく。
© キヅナツキ・新書館 より引用
ここであの
「お前に言ってもどうにもならない」
のセリフがでてきてしまうのである。
おそらくこの「手」のふれあいがある直前まで、秋彦は春樹に「雨月を幻視して」、彼を抱いていたのだと思う。秋彦はだから「辛そうな顔」をしているのだ。
ところが、触れられた「手」が、雨月のものとは違ったのである。春樹の「手」には、秋彦を嫉妬させる要素がないのだ。春樹の「手」には、秋彦を刺すトゲや針がない。
春樹を屈服させても、彼に尽くされても、秋彦が雨月に感じる痛みは癒されない。それがわかってしまったから、秋彦は「お前に言ってもどうにもならない」と言い放ったのである。
やはり、「春樹をフッた」わけではないのだ(前回考察記事参照)
この「手」の違いが、劇場版では大変印象的なのである。
ぜひ、ご覧いただきたい。
3.大きさの違うマグカップ―天才の葛藤
映画館で「なんで今まで気がつかなかった…!」と一番感じたのは、雨月と秋彦のマグカップというツールである。
マグカップがなんなのか、まずは確認しよう。
本格的に登場してくるのは、4巻。雨月が真冬に秋彦との関係性を語る場面の回想シーンである。
同居後、秋彦が初めて雨月にプレゼントしたのが、ペアのマグカップだというのである。原作では二つ並べた絵が出ないが、映画だと「まったく同じ形・色(白)のマグカップ」だと確認できる。
© キヅナツキ・新書館 より引用
雨月はそれが無性に気に食わず、ひとつ割ってしまう。その後泣き出してもいる。
映画では割愛されていたが、原作のインスタ?画像から、「ひとまわり小さいマグカップ」がほどなくして追加で購入されたことがわかる。これを雨月は割らずに、現在でも使い続けている。
© キヅナツキ・新書館 より引用
まずはなぜ雨月がマグカップを割ったのか、である。
私はこれが「まったく同じ形・色(白)」であったことが問題だと思うのだ。
映画の中で雨月は、秋彦との恋人関係をについて、なんだかやたらと楽しくて、甘やかされて、自分を穏やかにしてしまう…というようなモノローグで表現している。
つまり、雨月を「只人」にしてしまうということであろう。
その象徴がおそらくマグカップなのだ。
秋彦とまったく同じものを使ってしまったら、二人の間に差がなくなったら、二人だけの世界で前にも後ろにも進まず、ただ停滞するだけである。
それを雨月は強烈に嫌がったのではないか。だから「大きさの違うマグカップ」であれば、イヤイヤながらも使うことができたのではないか…
その一方で、マグカップを割った雨月は泣き、
ヴァイオリンのデュオ相手は、秋彦にしか頼まず
「二度とあれ以上はないだろう」と秋彦との関係を述懐する
前回の記事でも考察したが、雨月と秋彦は、何も言わずともおそらく同じものを、同じように見られるのだ。
しかしそれは、心地よい反面、互いの世界を狭め、互いを縛り上げ、「互いの足枷」にもなる。
色は同じでも、大きさが違うマグカップ
これを使うことで、雨月は、秋彦との「差異」を保っていたように思う。それは、気まぐれに彼氏を連れ込み秋彦を突き放す行為にも通じるものである。
ぴったりと重なってはいけない
天才音楽家としての雨月の本能が、そうさせていたのだと思う。しかし、人間としての情では、秋彦のそばにいたいと思っていた。
この葛藤こそが、ただの人間と天才との間を彷徨う雨月の叫びなのだろう。
人間としての情を断ち切ってしまったかに見える雨月が、今後、秋彦とは別の形で、繋がりたいと思う人間が出現することを、心から願っている。
その時は、ぜひ「色違い、同じ形のマグカップ」を使って欲しいものである。
映画館での興奮を引きずったまま書きなぐってしまった(いつも通りといえば、いつも通りである)
前回の中山春樹考察記事では、村田雨月についての考察が少し手薄だったという反省があったので、今回はそれが補完でき、よかったと思っている。
原作が今後どうなっていくかはわからないが、できることなら、村田雨月にも新しい幸せの形を提示して、物語が閉じられていくことを期待したい。
……映画ギヴン、あと2〜3回は見に行きたい……
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