「血」と「家」の舞踏―『憂鬱な朝』と「手」(ネタバレ)
危険な作品だと、ずいぶん前からわかっていた。
手を出したら最後、絶対に抜け出せない沼だという確信があったのだ。日高ショーコ先生、明治時代、身分差と年齢差…大好きな要素しかないではないか。その上ドラマCDは平川さんと羽多野さん。ああ、もう…
ということで、原作、スペシャルブック、ドラマCDを経て、完全に溢れ出してしまったこの作品への愛を、考察記事として垂れ流していきたい。他記事と同様、考察とはいえ二次創作として読んでいただければ幸いである。ネタバレと願望と妄想は、度を越した酷さになると思われる。不快に思われる方はUターンをお願いする次第である。決して甘ったるい考察でもないので、ご注意願いたい。
基本的には原作既読の方向けの、大変不親切な拗らせ記事になってしまうだろう。自己満足の駄文なので、許していただきたい。
※画像は全て電子版の原作より引用させて頂いた
さて、『憂鬱な朝』の概要をざっと確認しておこう。
舞台は明治時代、東京。久世子爵家。父と母に先立たれれ10歳で子爵家を継ぐことになった暁人、彼の名代として子爵家を仕切るのは先代に養子として引き取られて育った桂木である。暁人は父の遺言で、桂木に従い、厳しい教育を受けて成長。その過程で桂木への想いが恋心であることに気がつき、高等科に進学した暁人は、桂木にある「取引」を持ちかけ、彼をつなぎとめる…
ざっとこんなところだろうか。
いろいろな切り口で考察できる本作だが、私は「手」の場面を中心に、主人公である二人がいかに「血」と「家」に生きているか…ということを考えていきたいと思っている。タイトルを「「血」と「家」の舞踏」としたのは、宝塚歌劇のミュージカル「エリザベート―愛と死の輪舞曲」のオマージュのつもりである。桂木と暁人の関係は、エリザベートとトートの関係に、非常によく似ている。その2人が、「手」を重ねて、「血」と「家」を纏って、いかにしてワルツを踊るのか……その軌跡を辿りたいのである。
1.『憂鬱な朝』における「手」
日高ショーコ先生の作品は、余白が多くを物語る作品だと思っている。よしながふみ先生にも通じるが、セリフのない場面、特に登場人物の「手」と「目」の動きが、とにかく雄弁である。ドラマCD化するにあたって、声優さんに卓越した演技力が求められてしまう所以はここにあるだろう。
本作もまた、1巻から常に暁人と桂木の「手」が多く描かれている。
「手」とはなんだろうか。
もちろん人間の肉体の一部だ。だが、たとえば古くは、その人が書く文字のことも「手」といった。音楽の奏法も「手」という。言語を生み出すのも「手」、非言語を生み出すのも「手」。「手の者」といえば、所有する手下ということになる。駆け引きの手段、人間関係を表すことばにも「手」は使われる。
本作の根幹は、暁人と桂木を中心とした、人間関係のもつれ、ディスコミュニュケーションにある。そこには「血」と「家」がからまる。「手」には血が流れている。と同時に、教育によって授けられる「家」の作法を習得するのも、また「手」である。
『憂鬱な朝』が抱え込むテーマは、「手」に集約されているといっていいと思う。ということで、「手」から本作を読み解いてみようと思ったのである。
2.不安の象徴としての「手」―「取引」以前の暁人の場合
scene1で、初めて出会った暁人は階段でよろめき、桂木に手を掴まれている。いわば、肉体におけるファーストコンタクトである。このとき暁人は、若干頬を染めながら、「…ありがとう」と発言。桂木の手を「大きい」と感じている。
天涯孤独になった暁人は、父親からの遺言で「桂木に従え」と言われていた。ただし、それを実感したのはこの場面が初めてである。「この大きな手が、自分が頼れる唯一のものなのだ」という気付きがここにある。それなのに、桂木の態度やまなざしは、暁人を突き放していく。口では「暁人のため」といいながら、その視線は彼を通り過ぎていく。それは長年にわたって、暁人の不安を煽っていくことになる。
暁人にとって、桂木の「手」とは、生命線でありながら、掴みきれないもの。どこか埋めきれない寂しさや、得体の知れない飢餓感を掻き立てる、不安の象徴として、位置付けられていく。だから作品後半の暁人は、ことあるごとに桂木の手に触れていくのだ。暁人の「手」への執着は、作品の本当に序盤から始まっているのだ。
scene2.3では、17歳になった暁人が、桂木の腕を2度つかんでいる。話ではどうにも桂木を止められない、話を聞いてもらえないタイミングで、どちらも腕をつかんでいる。「手」ではない。
2度目に腕をつかんだ際に、暁人は「桂木の冷たさは、自分が邪魔だったからなのか」という、長年抱えてきた疑念を口にする。これはscene1で、10歳の暁人が初めて桂木の「手」に触れた時から感じていた、不安だ。そして暁人は、それを明らかにすることが怖かったにちがいない。
桂木の「手」に触れることは、その恐怖と引き換えの欲望であった。だから少しズラして腕をつかみ、不安を吐露したのである。(これ以前に暁人が桂木の「手」を触りかけたこともあるのだが、振り払われている)
そして「取引」を持ちかけつつ、無理やり桂木を抱くことになる。ここでもやはり、暁人は桂の腕をつかんで組み敷いている。「手」ではないのだ。
これ以降も「手」が印象的な場面は多く出てくるが、暁人が桂木の腕を掴む場面は、ほとんどない。所有の証として手首に跡はつける(これもまた手への執着だと思うが)ものの、実際に触れる際は、常に、手のひらや指を中心とした「手」に触れていくのである。
暁人と桂木はこの「取引」を機に関係を変化させていく。「取引」のあとになって、暁人が、ずっと欲していた「手」に触れていく描写が出てくることも、2人の関係の変化と無関係ではないだろう。
桂木の「手」に触れていくことで、桂木を受け止め、理解し、乗り越え、成長していく暁人の様子が見て取れるのである。それは最終的に、桂木の不安を掻き立て、さらにはそれを鎮めていく「手」にもなっていくのだが、そのあたりはまた改めて考えたい(あまりにも長くなりそうだ)。
3.不器用な言葉と「手」―桂木の場合
桂木の場合は、暁人との「取引」以降に、「手」の描写が多くなっていく。
暁人とは逆行する形で、手に役割が課されていくようなところがあるのだ。
「取引」以前の暁人は、桂木の「手」を欲しながらもうまくいかず、あふれ出る欲望を抑えるように、自分に手を押し当てるような場面が多かった。
対して桂木は、「取引」以後にそういった動作が増えていく。のちに彼自身が述懐しているが、「取引」以前には愛も情も知らなかったからだ。抑える必要がなかった。
そのなかでも大変重要な「手」の場面は、3巻scene13にある。
桂木の仕事を徐々に自分に移行させていく暁人が、旧領地についてはギブアップ宣言をし、桂木に助けを請うところである。
「お前にが僕に教えてくれたこと全部、今ならすごく大切だったってわかるんだ…」
と告げた暁人に無言で近づき、初めて自分からキスをする桂木。そのあとの「手」だ。口元を抑えている「手」。
これが本質的な桂木を象徴する「手」だと思うのである。
彼は言葉を表に出すことをためらい、抑えてしまう。それは不用意な発言によって立場が脅かされることへの恐れでもあるし、気持ちを表現するのに適切な言葉をもたないための、アクションでもある。
のちに夜会で直継をめぐる一悶着がある直前に、「あなたのおそばに…」と桂木が暁人に告白をする場面があるが、そこでも桂木は「どう表現したらいいかわからない」というようなことを言っている。
こと、政治的、経営的なことばに関しては、桂木ほどの語彙を持つものはいないだろう。しかし、人間的なふれあいや営みについての語彙が決定的に乏しいのである。だからいつも「手」が先に動いてしまう。
「こんなに暁人さまの体は固かったか…」と思う場面でも、言葉より先に手で触っている。石崎の別邸に桂木がはじめて行った時も、自分は隠居して桂木を当主に据えようとする暁人の首に「手」を回して触れている。
その一方で、寝室では頑なに顔を「手」で隠すなどの行為もみられる。
桂木が約30年間知りえなかった、人を欲すること、寂しさ、孤独、愛情…それは暁人の「手」からもたらされ、桂木も「手」で感じ取っていく。ただし、それを抑制するのも「手」なのである。
桂木は複数の肩書き、アイデンティティを持つ。
久世家の家令
桂木家の三男
石崎家の大番頭
これらの肩書=居場所を手放すたびに、桂木はどんどん言葉の不器用さを露呈させていく。言葉にできず、逃げる、らしくない態度をとるなど…
桂木の言葉というのは、立場や役回りに由来するものであった。それを失ったとき、桂木自身の本音を紡ぐ言葉を彼は持っていなかった。だから、かわりにそれを語ったのは「手」だったのだ。
本作は、桂木智之という人間が、いちど言葉を失い、それを「手」から取り戻していく物語のように思える。そしてそれは、暁人が桂木の「手」に触れることをあきらめなかったからこそ、実現したのである。
ちなみに桂木智之は、きくが彼の畜妾届けを暁直に見せた際、「それを自覚していた」ということがバレ、手を振り払われている。
その振り払われた手を、ひたすら求め、受け止めていくのが、暁直の息子である暁人であるのは、なんとも皮肉な話ではある。
4.「血」か、「家」か―桂木智之を構成するもの
桂木は色々な意味で、やり手である。経営や経済の手腕、相手を手玉に執り籠絡する手管。ここにもやはり「手」がある。彼が生きるために発揮していくそれらの「手」は、いったいどのように、どこから身につけたものなのだろうか。ここには「血」と「家」の問題が大きく関与してくる。ここからは「手」からは少しはなれて、「血」と「家」の問題を考えてみよう。
最大のネタバレをして申し訳ないが、
桂木智之は
「血」では、①桂木家先々代と知津の子、だが、書面で残る血筋は②久世家先々代と知津の子
「家」では、①桂木家の三男の戸籍を持つ、が、②久世家の養子として育てられる
いずれにしてもダブルミーニング。これではまともなアイデンティティが保てるはずがない。結果として桂木は、桂木家でも久世家でも居場所をなくす。
それでも久世直暁を思慕してやまなかったのは、彼が「智之自身に惹かれた」から養子にしたと発言したからだ。桂木智之は誰よりも強烈に、家や血に関係の無い、剥き身の自分が求められることを望んでいた。
ちなみに、暁人も桂木を思慕した理由を、家や身分を気にせず接してくれることだとしている。桂木は暁人を捨てるつもりであっても、かつて直暁が自分にしてくれたように、暁人に接したのだ。
家や身分を生まれながら持つ暁人も
家や身分を生まれながらに持たない桂木も
それにとらわれない愛情を欲していたというのは、なんともしんどい話である。だからこの2人は、互いの欠落を埋め合うようにひかれたのかもしれない。
さて、話を桂木智之に戻そう。
4つの顔を持つ桂木は、一体何を軸として生きているのだろうか。
時に、久世暁直に似ていると言われ、時に桂木家の母親似だといわれ、桂木家先々代のようだとも言われる。ぐちゃぐちゃである。
たとえば、暁直によれば、英語や数学に長けているのは桂木の「血」
ふてぶてしさは先々代の桂木当主の「血」
「久世家のため」と冷徹なまでの手腕を振るうのは、久世暁直の教育―「家」
暁人を教育する姿、衣服へのこだわりも、久世暁直の影響―「家」
言い換えれば、家も血も、どちらもなければ桂木智之にはならないのである。
桂木はずっと暁人に対しては、暁直から継承した「家」で接するようにつとめてきた。そしてその裏では「血」によって受け継いだ、肉体関係によって人をとりこむことを躊躇なくやってのけていた。
とはいえ、彼の本質はやはり「血」であるように思う。それは久世とも桂木とも頃なる血である。
特に自分のカラダに関することは、母を色濃く受け継いでいると思うのだ。本作の中で唯一、カラダを武器にしている人物なのだ。しかし母と違うのは、桂木はカラダを通してしか物事を理解できない、という傾向にあるということ。血筋も家も、アイデンティティが至極ぐらついている桂木は、肉体的な感覚でしか自分を確かめられないのだ。しかしそこに情はなかった。
それを変えたのが暁人である。
それまで桂木が感じなかった「熱い」という感覚を、肉体を通して初めて彼に与えたのだから。桂木はそれを「憂鬱」と感じていたが、それは桂木が持たざる感覚であったから。それが情であり、それによって桂木の本音は引きずり出されることになった。あのような即物的な展開ではあったが、もしも暁人が肉体関係に強引に持ち込まなければ、いまでも桂木は自己に目覚めることはなかっただろう。
なぜ暁人がそれを可能にしたのか。もちろん、彼の愛情のたまものであるといえばそうだ。ただし、やはり知津という女性の存在を忘れてはならない。
彼女は久世家を欲し、それを得たかにみえて、失ったのである。
はからずもその息子である桂木は、自らのカラダで久世家というものを知ることになった。それは暁直の教育であり、暁人の愛情である。アイデンティティとして強制的にあたえられていた久世家先先代の落とし胤という属性を、暁人に触れて自身の内側に取り込むことで、桂木の母がのぞみ、蓄妾届に記された事実を、桂木はようやく知ることができる。欠落した自己が埋まったからこそ、彼は目覚めたのだ。
1巻で暁人は、桂木高之に「他人の目を通さなければ自分のことすらわからない」と評されたが、むしろそれは桂木智之にこそあてはまることなのだ。
桂木は「血」で生きている。
しかしそこに、「家」が補完されなければ、彼は人たりえなかった。
そういうことではないだろうか。
5.「血」と「家」と踊るということ
桂木智之が背負っていたテーマというのは、人は「血」で生きるのか「家」で生きるのかというものだったに違いない。「血」を持たない桂木本人は、暁直から「家」の教えを継承した「血」を持つ暁人は、暁直から「家」を教えを継承しなかった
「血」を持たないのに、暁直に似ていると言われる自分
「血」を持つのに、暁直とは違うと言われる暁人
桂木を不安にさせ、苛立たせたのは、家と血の解離現象である。もしも暁人が、桂木の教えによって暁直に似てきたとしたら、桂木はきっと「「家」の教えを色濃く継承した自分が、当主でいいではないか」と思っただろう。しかしその思惑は外れた。
暁直に似なかった暁人に「敗北」したことで、桂木は自分の存在意義を見失うのだ。
桂木は、「血」を持たないことを相殺するほどに、「家」を完璧に習得すれば、久世家に居場所があると信じていたわけだが、それが崩れたのであった。
ここで桂木の救いとなったのは、奇しくも、暁人が「家」の教えを桂木から習得したのだということだった。
暁人は暁直ではなく、桂木の教えを、彼の存在を指針として生きている。つまり、久世家の「血」たる暁人を構成する大きなパーツとして、桂木智之という人間が在るわけである。
桂木を宿した暁人が、自らの信念で新しい道を切り開いていく。だからこそ桂木は、石崎紡績を自分の会社とする時に、
「あなた(=暁人)の姿を思い浮かべました。あなたがいたから私は進むことができたのです」
と言っているのである。
自分のことは信じられずとも、暁人の中で「血」と「家」が融合した自分ならば信じられる…そういう意識だったのではないだろうか。
「家」が欠落した暁人は桂木を指針とし
「血」が欠落した桂木は暁人を指針とした
そうして互いの「虚」を埋めあって、ようやく二人は手をつないで、横並びで歩けるのである。
8巻の桂木は、どの家にも属さず、血と家の呪いから解き放たれたと見る方は多いだろう。私はそうは思わない。家も血も、なくてはならない。それがなければ、暁人はは桂木に執着することはなかったし、桂木が自己に目覚めることはなかったのだ。家や血というつながりの上位互換として、暁人と桂木のつながりが確かなものになったからこそ、呪いが絆に変わったのである。
暁人はやはり久世家の当主なのであり、桂木は桂木紡績の社長なのであり、暁人は変わらずに、彼を「桂木」と呼ぶのである。やはり彼らはどうしようもなく、「血」と「家」を生きている
二人はそれぞれに「血」と「家」をまといながら、しかし、それに縛られるのではなく、それを「絆」として、互いの「手」を取り合って踊るのだ。
「家」や「血」を完全脱いでしまっては、きっと2人は踊れない。でも、その埒外で愛し合う互いの存在がなければ、「血」と「家」にまみれた世界では生きていけない。
そういう結末だと私は思っている。
かなりわかりにくい考察をしてしまった。何が言いたかったかといえば、暁人と桂木の恋は、ただの惚れた腫れたでは無いということなのだ。それぞれの「血」と「家」に要請されたものだと言いたかった。
それだけに互いの執着は強く、欲望は深く、複雑で、切実なのだ。
全てを手放して恋に走れない。数多の制約のなかにあるからこそ、暁人と桂木の関係は、不可侵領域のように成立しているのだと思う。
本当に、苦しく、切なく、美しい物語であった。彼らを生み出してくれた日高ショーコ先生には感謝しかない。BLの枠にとらわれず、多くの方に読んでもらいたい作品であった。
長文にお付き合いいただきありがとうございました!