【アイナナ4部考察番外編】Re:menberと「形見」(ネタバレ)
【アイナナ考察記事についてのお願い】
・「二次創作」としてお読みください。ストーリーの展開を保証するものではなく、公式やキャラクターを貶めようとするものではありません。
・アイナナに関するすべての情報を把握しているわけではありません。個人の妄想と願望を大いに含む、一解釈であることをご理解ください。
6周年の裏で、アニナナ3期がひとつの山場を迎えている。
旧Re:valeのエピソードである。
今これを書いている段階では、前半(8話)しか視聴していないが、映画並みのクオリティで、本作においてRe:valeの過去と現在が、いかに重要であるかを改めて感じた。
フォロワーさんのおすすめもあり、これまで履修せずにいた「Re:menber」をこのたび読了した。なんとも贅沢な時間であった。
原作以上のことは何も言えないが、私なりに、新旧Re:valeについて感じたことを書き散らしておこうと思う。
とはいえ、私はこれまでTRIGGERを中心に本作を考察してきた人間であり、Re:valeについてはド素人に近い。
長年Re:valeを見守っているマネージャーの皆さんにとっては今さら何を言っている状態だろうし、腹の立つものになるだろう。不快に思われる方はUターンをお願いしたい。
(既にRe:valeやRe:menmberについては、神々による素晴らしい考察がいくつもあると思うが、ほとんど読まずにこの記事を書くことをお許しいただきたい)
いつも通り、大変なネタバレと妄想を含むものである。また、以下の画像はすべて©アイドリッシュセブンより引用したものである。
前置きが長くなってしまったが本題に入ろう。
私は今回、Re:menberという作品を通して、新旧Re:valeを「形見」というキーワードで考えていきたいと思っている。Re:valeといえば「身代わり」というフレーズを避けて通れないことはわかっているが、私はそれよりも「形見」の要素を強く感じてしまったのである。
1.大神万理が消えた理由
いきなり核心部分から書いていくことになり申し訳ないが、避けて通れないので手始めに確認しておきたい。
アプリのメインストーリー、そしてアニナナ3期を見る限りにおいて、大神万理失踪の理由は、「千を九条のもとからデビューさせないため」というのが、共通認識だろう。
たしかにそれは最も重要な理由だ。
だが、それ「だけ」でもないと思うのである。
アイナナから解散理由(=小鳥遊事務所就職理由)を聞かれた際、万理は真っ先に九条のことを言ったわけではない。
「目的が果たせたからかな?」
が第一声である。
つまり、曲作りや歌手活動へのモチベーションの違いというものが、第一の理由に挙げられるのだ。
九条から「お前は足手まとい」と言われるその前から、万理は、百からの手紙で満足感を得て、千を音楽で食えるようにしたいとマネージメントし、その広報活動等にやりがいを見出していたと述懐される。
言い換えれば、九条の存在や、例の怪我はきっかけに過ぎず、遅かれ早かれ旧Re:valeはピリオドを打たなければならなかったのだ。
一件、単なる価値観の相違というか、人生観の相違のようなものに思えるが、私はその裏で、千と万理が共倒れにならない寸前の、結構差し迫った選択であったことが強烈に印象に残った。
千は幾度も「万がいなきゃ曲が作れない」と発言している。
そして
「僕は僕が愛されなくたっていい。僕の歌だけ、神様にも虫にも愛してほしいんだ」
という価値観の持ち主である。
千のいう「僕の歌」とは、千の肉体よりも精神よりも、もっと密接に「千そのもの(=魂)」ということになる。だから演奏と切り離さなければ、冷静に歌えないほどだった。
その「千そのもの」は「万がいなければ(万の要素がなければ)作れない」のだという。
これは恐ろしい事象である。
万理自身も失踪前に
「(千は)俺がいないと生きていけない千になってしまっていた」
と感じている。
が、むしろ私が恐ろしいと感じたのは、万理側の問題である。
これ以上「千の曲」と万理が密接に交われば、大神万理という存在そのものが曲に飲み込まれかねなかったのではないか。それはつまり、千と万理の境界線が危うくなる(同化現象)に他ならない。
万理はそれを察知したから、千から離れたのではないかと思うのだ。
万理と融合することは、千を変容させるかもしれないが、彼の世界はそこで閉じてしまう。
そして、万理は千と溶け合って、個をなくしてしまう。
だからもう、大神万理は物理的に、折笠千斗と距離をとるしか、「自分」を保って生きる術がなかったのではないかと思うのである。
それはある意味、社会的に一度「大神万理が死んだ」ということにならざるを得なかったが、そのおかげで、大神万理自身は個を保ったまま、無事に再生したわけである。
もちろん、万理の意識としては千を個として守るための行動だったのだろうが、図らずも大神万理自身の「自己犠牲による自己喪失」を免れる結果にもなったのだと思う。
いずれにしても、この大神万理の複合的な理由での失踪(ある種の、死)は、複数の「形見」を生み出していくことになる。それぞれ見ていこう。
2.折笠千斗の「形見」
最初に、「形見」の定義を確認しておこう。
失ったもの、遠く離れたものを思うよすがになる、遺されたもの、である。
もちろん、その中には、「身代わり」になるようなものがある。Re:valeではそのことがより強調されているが、大前提として「形見」の概念があることは、見逃してはならないだろう。
千が失ったのは、大神万理本人、そして旧Re:valeである。
それを思い出すよすがになるのは、二人で作った楽曲ということになろうが、万理失踪直後の千は「もう歌わない!」と、「形見」を拒絶する姿勢である。(それは、千自身を拒絶することになるので、廃人同然になる)
そこにやってくるのが春原百瀬(百)である。
百は万理失踪以前からのRe:valeのファンで、裏方仕事などでも時間を共有している。
千に「旧Re:valeを想起させるもの」だと言える。
そうなのだ、(万理の身代わりを演じなくても)百はある意味では、「千にとってのRe:valeの形見」なのである。
繰り返しになるが、千が失ったのは、大神万理本人とRe:valeそのものだ。
前述したように、それは「千の歌を形作るもの」であり、何よりも「千そのもの」に近いと言えよう。
万理の失踪は、千自身を失うことと同義であったとも言える。一度死んだ、と言い換えてもいいかもしれない。(万理の場合と同じである)
百の存在は、千にとって、大神万理の「形見」であり、Re:valeの「形見」であり、Re:valeとして生きる自分自身の「形見」でもあることになる。
千がその百を守ろうとすることは、ひいては、千自身を手放さず、守っていくことにもなったのだと思うのである。だからこそ、千は百に救われたと感じているのだろう。
いわば、Re:birthである。
3.春原百瀬の「形見」
次に百にとっての「形見」も確認していこう。
百が失ったのは、大神万理というよりは「Re:valeそのもの」だと言えるだろう。
百にとってRe:valeとはどんな存在だろうか。
プロサッカー選手になるという夢破れた百にとって、Re:valeは第二の夢ということになろう。Re:valeが空中分解することは、百にとって、二度目の「夢を失う」出来事に等しい。
そのRe:valeの残像として残っているのが、折笠千斗その人である。
百にとって千は、Re:valeを思い出すよすが……つまりは、「夢の形見」とでも言える存在なのである。
ここで注意しておきたいのは、百が見ていたのは、「自分自身が介在しないRe:vale」だということだ。千と万理というRe:valeの形が、「百の夢のかたち」なのである。
だからこそ、百は「万理の身代わり」という役目を自らに課した。
もちろんそれは、千を説得するための手段だったのだろうが、百が「夢を失わない」ためには、万理がいるRe:valeでなくてはならなかったのだ。
百がそれを実感するためには、自らが万理のように振る舞い、
そして、万理の隣にいるときと同じような、「千の姿を見る」必要がある。
しかし、百が記憶しているのは、結成から5年後の二人の姿までである。
それ以降は、再現できない。見ていないのだから。
百が「5年でいい」といったのは、言い換えれば「5年しかできない」ということでもあるのだと思うのだ。
だからメインストーリー2部で、百は不安のあまり声を失ったのだ。
「夢のかたち」がわからなくなってしまったのだから。
4.大神万理の「形見」
最後に、大神万理である。
失踪した本人なのだから、「形見」なんぞあるわけがないじゃないか、というお声もあるだろうが、そうとも言い切れないと思うのだ。
失踪寸前、万理は
「一番近くで千の歌を聞いていたかったよ」
「きっと何度も思い出す、二人で夢見た日々を」
と考えている。
そうだ、間違いなく、Re:valeは大神万理の夢でもあったのだ。
百と違うのは、その「夢」に自分自身も含まれていたということだが、万理は「Re:valeである千を見ること」で、自分自身の「夢」をより実感していたに違いない。
たとえ千のマネージャーとしてでも、Re:valeの曲を歌う千を見ていたかったはずなのだ。
すると、大神万理にとっての「夢の形見」は、「歌う折笠千斗」だということになろう。そしてその夢の形をどうにか保ってくれたのは、百だったのだ…
大神万理が一度手放した「夢の形見」は、新Re:valeとして残ったことになる。
小鳥遊事務所で「失った夢を叶える居場所をくれてありがとうございます…」と再出発を誓う大神万理にとって、新Re:valeを外側から見ることは、夢の中に置き去りにしてきた、大神万理自身を取り戻すことにも等しかっただろう。(やはり、Re:birthである)
新Re:valeと再会した大神万理は、特に千に対して、距離を置いているように見える。
それは前述した通り、千と近づくことは、千との境界を曖昧にし、これまで積み上げた自己が溶け出してしまうことだと、知っているからなのだはないかと思う。
千の中には、かつての大神万理はいるが、今の大神万理は預けない。
そこにあるのは、やはり「夢の形見」だと思うである。
5.「形見」からの脱出と、Re:birth
メインストーリー4部で、 新旧Re:valeに因縁深い「未完成な僕ら」とい楽曲が、再び注目されることになる。
千は百と「未完成な僕ら」を歌おうとし、新アレンジを試みる。しかし、百は首を縦に振らない。
なぜなら、百にとって「未完成な僕ら」は旧Re:valeとしての思い出の曲であり、千と万が歌うものとして、百のなかで大切な記憶になっているからだという。
5年というタイムリミットを過ぎて、百は、「今」に「夢の形見」を再現することをやめようとしているのである。「夢の形見」は形をそのままに残し、もっと違う夢を、未来に見ようというのだ。
結局、百が作詞し、千が作曲した一曲を作るということになる。作曲には介入していないので、万理の二の舞にならないだろうと…私は信じている。
このように、百は、旧Re:valeを「今」とは切り離して考えられるようになってきている。それに対して、千はやはり割り切れていないように思う。なんとなく、5部でももう一回くらい、万理にデモテープを聞かせようとする気がする。
千の旧Re:valeへの固執は、「ハッピーアワー計画」への尽力にもつながっているように思う。
この計画は、旧態依然とした芸能界を変革するものだが、それはある意味「ゼロ時代」からの脱却という一面があると思うのだ。
千は、「九条が千をゼロにしようと考えたから、万理を失った」と、たぶんいまだに思っている部分がある。
いわば「ゼロの幻想」とでもいうものを、自ら叩き割ることによって、ようやく千は、万理への贖罪を果たせると思っているのかもしれない。
正直言って、千が芸能界の変革にそこまで興味があるようには思えないのだ。やはり万理との過去があるから、千は革命に手を染めるのだと思う。
こう考えると、九条鷹匡もまた、「形見」に囚われた人物なのかもしれない。
ゼロの幻影を追って、彼に似た誰かを「ゼロの形見」として、過去を再現しようとしている。時には、自分自身がゼロの格好をして、「形見」のようなふるまいもした。
同じような道をたどったRe:valeだからこそ、彼の終わらない幻想に、終止符を打てるのかもしれない。
そしてそれは、九条のみならず、アイドル界のRe:birthになると思うのである。
またしても根拠の薄い妄想を書き散らしてしまった…
本当には「血と家~」シリーズに入れたかったのだが、Re:valeは「血」も「家」もこえて繋がっていたので、それはあきらめざるを得なかった。
思えば、全員集合の立ち絵などでは、千が中心にいることが多い。
もちろん年長者ゆえ、というのもあると思うが…彼が一番、アイドル界の変革に賭ける思いが強いということなのかもしれない。
恐らくメインストーリー5部では「ハッピーアワー計画」がぐっと進行していくことになるだろう。その中心たる千の原点を知ると言う意味でも、このタイミングでRe:memberを読了できたのは、幸いであった。
長文にお付き合いいただき、ありがとうございました!