私はネイティブバカとして生きていく✨✨✨別名、アレンジした僭越な主張🗼🔮🌈
〔この記事の補完記事〕
〜私が感性を入れ替える日は来るのか❓〜
実年齢よりも精神年齢が高いと、すごい‼️と言われる世の中かもしれない。
しかし、実年齢に対して、精神年齢が高い状態を保とうとすれば、
なんかいい意味でおかしくなるかもしれない。
精神年齢を高く積み上げたからといって
偉そうに振舞っていい理由にはならないかもしれない。
精神年齢が高い
をいい意味で分解すると
いい意味でそれなりの頭脳❎優しさ
かもしれない。
頭がいいだけでも、
優しいだけでも、いい意味でモテない、ということは、
これまでそういう方を見てきたから、
そうかもしれない、と言えるかもしれない。
逆に、私が、
頭がいいだけで、優しさがいい意味で欠乏していたら、
これまでの人生で、いい意味でこんなにモテなかったかもしれない。
逆に、
優しさはあるけれど、合理的な判断・行動ができなかったら
いい意味で粘着質な性格になったり、
いい意味で頼りなさそうに見えるかもしれない。
まあ、言いたいことは、イメージで理解して欲しい。
何も考えなくても、
いい意味でそれなりに頭が良く、
優しいから、
異性ウケはいい意味でいい方かもしれない。
いい意味で異性ウケとか考えることは、
いい意味であざといかもしれないけれど、
いい意味で無知蒙昧でい続けることはいい意味で避けたい。
いい意味で、正確に知識を増やせば増やすほど、
周りに対して苛立ちを覚えるようになってしまうかもしれない。
きっちり、きっかり、可能な限り正確に覚えることが全て、
そう思っていた時期もあるけれど、
融通が効かない、頭が固い、と言われたこともある。
自分の中の常識を変えたら、
融通が効かない、頭が固い、柔軟性がない、
と言われることはなくなった。
何を変えたのか❓
自分はバカかもしれない、と認めれたことと、
バカならバカなりにネイティブバカになってやろう、
と思ったこと。
自分の常識を変えたら、楽になった。
正確に覚えることが全てじゃない、と思い始めた。
だいたい、頭がいい人間は、
融通が利いたり、頭が柔らかく、柔軟性があるものかもしれない。
さほど、頭の良くない私が、
正確に覚えることが全て、という考えに、
いい意味で縛られて不具合を起こすことは、
自己満足かもしれない、とわかった。
結果が全てかもしれない。
正確に覚えることが全てじゃない、としても
不具合は起こすものだけれど、
正確に覚えることが全て、に囚われて、
失敗して、周りに迷惑をかける。
ここまではまだ許せるところだけれど、
そこで反省をしないことは問題だった。
結論だけ言えば、
ネイティブバカとして生きて行こう、
そう考えを変えたことが全てかもしれない。
あまり、いうものじゃないけれど、
成績が良かったことで、傲慢になって、
バカと共存することが嫌だった時期もある。
そういう私は何だ❓
とした時、
私もバカなんだけれど、
それを認められなかった時期がある。
学生時代に、腐ったプライドを持ったのは、
時代による不可抗力なのか❓
私が私だからだったんだろうか❓
まあ、今は、器が大きくなって、
自分とは違う価値観も認められるようになった。
結果が全て、というのならば、
ネイティブバカとして生きていく覚悟を持ったことが、
全てかもしれない。
それこそが、世界中に存在するバカのために、
足を止めて考える(愛がある)ことになるんじゃないか、
と思う。
バカと自分は違う、と理性で線引きした時点で、
エラーになるんじゃないか。
という考えがある。
そういう斜に構えた態度を取ると、
雰囲気悪い、と思われる。
本人は、習慣的に、斜に構えたとして、
そういう態度を取ることが自然、だと思っているとしても、
世界中の、何者かを、憎んでいる、
または、いい意味で無関心にしている、
という状態になるのではないだろうか。
バカに対して、憎みもせず、無関心にもならず、
寧ろ、足を止めて一緒に考える(愛する)。
それが全てだと私は思う。
だからネイティブバカとして生きて行こうと思う。
愛のない方から見れば、バカな先住民で結構。
愛が全て、と思うからこそ、
バカな先住民になった感覚で、
責任を持って生きていく。
愛のない方に対しては、いい意味で優位に立てる。
まあ、本当は、誰もが相手を愛せる可能性は持っていて、
偶然別のことを考えて私の読んでいたら、
はっ とさせられた みたいな状態だと思うから、
本当は愛がないということはないと思うんだけれどな。
愛の深さかな。
しかも、若者にウケがいい、愛の深さかもしれない。
おじいさん、おばあさん世代が素直に思う、
愛の深さ、は
若者ウケしづらい、形をしているかもしれない。
ジュネレーションギャプ的なところがあって、
仕方がないよね。
おじいさん、おばあさんの考える愛の深さと、
私の考える愛の深さとで、共通する感覚があることを祈るけれど、
自分の言語感覚を崩してまで、
おじいさん、おばあさん世代の愛の深さを理解しようとは思わない。
もちろん、それは逆に、
おじいさん、おばあさんも、
自分の言語感覚を崩してまで、
若者の言語感覚を理解しなくてもいいんじゃないか、
と思っていることでもある。
そういう考えで、歩み寄って、
お互いの言語感覚で共通するところがあることを、
祈る感じだ🗼🔮🌈
書いていることは、いい意味でいつもの あおもりずむ かもしれないけれど、
タイトルにいい意味で迷って、今のタイトルに変えたかもしれない。
楽しくて得られるものが多いクリエイターになります⭐️⭐️🗼🔮🌈