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今日の想像かもしれない🗼🔮🌈

自立心はどこから来るのだろうか。

例えば、親に対して苛立つ気持ちから、自立心を持つものなんだろうか。

まあ、私も親に対して苛立ちを持つ気持ちから、

自立を意識し始めた。

でも、行えばできる人たちと違って、

一人暮らしとかいい意味でできないし。

どちらにせよ、親と協力して行くことになる。

協力するならば、

親に対する苛立ちを思い出す必要はない。

私が出した答えだ。



親に対する苛立ち、

もしくは、生活能力が身についていないことへの危機感、

とかが、

自立心に繋がるのかもしれない。

どちらも、思い出す予定はないかもしれない。

どちらも持ったことがあるけれど、

いい意味で持っても仕方がない、と思ったから、

その感情を持たせようといい意味で煽られても、

いい意味でスルーするかもしれない。

仮に、いい意味で煽りを真摯に受け止め、

親に対する苛立ちと、

生活能力が身についていないことへの危機感、

を思い出したとしても、

料理と洗濯を勉強し始めるわけじゃない。

料理と洗濯を勉強するのは、

10万円のゲームをいい意味で買うような気持ちで、

いい意味でさっ   と始められないかもしれない。

究極的に面倒臭がり屋だから、

母に頼らず自分で用意するとしたら、

いい意味で簡素な食事を極めると思う。

食事に、料理に、いい意味で凝る気はないかもしれない。

そういえば、母の料理を毎日受け取っている私と弟は、

母のアウトプット、個性、作品、

を受け取っていると言える。

母の料理は芸術だ。。

ものすごい凝るわけじゃないけれど。

食べる人を楽しませる、凝り過ぎず、手を抜き過ぎずの、

いい意味でちょうどいい感じで、作っている上に、

とても美味しい、最高、豊かさでしかない。

母は料理がものすごい得意。

母に料理で張りあおう、なんて言う気持ちはいい意味で全く浮かばないほどに、

母の料理に脱帽している。

母は神。

いい意味で、母には逆らえないかもしれない。

母の料理が好きになったから、

いい意味で母に逆らうことはないかもしれない。

料理は闘争本能で行うものじゃないかもしれない。

だから、いい意味でピンとこないかもしれない。

私が料理を行うとしたら、

闘争本能がビビっとくるいい意味で思考回路を見つけるかもしれない。

料理を極めて世界線の私は、いい意味で変人かもしれない。

包丁を見たらテンションがいい意味で上がる変人かもしれない。

自分で料理するとしたら、

いい意味でカロリーメイトで済ますかもしれない。

米とぎも面倒だとしたら、

レンジで温めるご飯を買えばいいんだ。

何も、料理が得意な人の常識に合わせる必要はない。

みんな、知らず知らずのうちに理想を高く持つかもしれない。

本当の意味で、自分らしさを優先した食事🍽

がいい意味で満たされるかもしれない。

母が、生きている間は、母の料理というアウトプットを受け取る責任がある。

ただ甘えているんじゃなくて、

料理をすることも、うまいといわれることも、

母の生き甲斐だから、

私がアウトプットを受け止めなかったら、

母がいい意味で悲しくなるかもしれない。

私がキッチンに立つとしたら、

いかに、簡素に、栄養ある食事をつくるか、

というところをいい意味で頑張るかもしれない。

そういえば、いい意味で何もしなくても美味しいご飯が食べられるから、

これは贅沢している。

贅沢しているから、いい意味で平均値がわからなくなる。

いつも、いい意味で平均値以上のアウトプットを受け取っているかもしれない。

いい意味で、金持ちは感覚がおかしい、ということもあるように、

いい意味でなにもしなくても美味しい料理が食べられる私は、

いい意味で感覚がおかしいのかもしれない。

本人は、ポジティブで陽気な気持ちで受け取っているかもしれないけれど、

いい意味で別の人からすれば、いい意味で感覚がおかしいのかもしれない。

しかし、私は、なにもしなくても美味しい料理が食べられる現状を、

いい意味でおかしい、と考える方がいいのだろうか。

例えば、いい意味で何もしなくても女の子に好かれやすい、

ことを、いい意味でおかしな事と考える方がいいのだろうか。

私の意見は、これは私の人生だから、

他人軸で生きなくていい、と思うかもしれない。

私が、いい意味で後悔しない生き方を選ぶかもしれない。



お母さんが毎日美味しい料理を作るから、

私から美味しい料理を作りたい‼️

という気持ちがいい意味で浮かばないじゃない‼️

というのは、いい意味で変かもしれない。

そういえば、いい意味でリラックマも、

自分で作らず、いつもいい意味で作ってもらっているから、

私は、いい意味でリラックマになりたいかもしれないため、

リラックマになっている気持ちを体験しているのかもしれない。

私の幼少期は、テレビとかでも、

まだ、料理は女がするもの、

とかいう表現も流れていた。

ある意味、メディアにそういう価値観を刷り込まれたのかもしれない。

時代が変わるのはわかるけれど、

一度成立した固定観念は私の中で覆りにくいから、

時代が変わったという事実はわかるんだけれど、

いまだに、料理は女性が行うものだ、という価値観が、

自分の中で変わらない。

だから、料理以外を楽しむ気持ちで育ってきたから、、

私にとって、料理以上に楽しいことをすでに見つけちゃってしまっている。

自分に甘いところがあるのかもしれない。

料理や洗濯をしていなくて、母に任せている自分を、

いい意味で嫌ったり、憎んだりすることができない。

自分を嫌ったり、憎んだりするとしたら、

私と同じように、料理や洗濯を家族に任せている人たち全員を、

嫌ったり、憎んだり、することにつながるかもしれない。

それをしたくなくて、

自分を嫌ったり、憎んだりはしていないけれど。

自分を嫌い、だとかいう人は、たいてい、

他者のことも嫌っている人だから。

いい意味で、嫌われやすいかもしれない。

いい意味で嫌い、ってパワーで成長していっても

いい意味で喜べないと思うため、

そういうパワーにはいい意味で頼りたくないかもしれない。

そういう私も、自分を憎むことをやめられたのは、

本当に最近だから、それまで他者を憎むという気持ちも、

いい意味で完全に手放すことが出来なかった。

最近になって、いい意味でようやく手放した。

いうが易し、行うが難し、

行う、の方を行なったのかもしれない。

自分で料理作るよりも、

将来、母の代わりに料理を作ってくれる彼女を探す方が、

いい意味で早いかもしれない。

一般的な男性は、セックスするために彼女と付き合う、

とか

いい意味で調べたらそういうことが出てくるかもしれないけれど。

もしかしたら、今後、

母が行なっている家事を、いい意味でバトンタッチしてもらう、

料理や洗濯をしてくれる彼女を探すかもしれない。

障害年金と、私の収入で、実際に生活できているから、

いい意味でできないことはないかもしれない。

そうすると、料理と洗濯以外のことで、

いい意味で頑張ることから始めたらいいかもしれない。

掃除機がけ、トイレ掃除、ゴミ集め、除菌作業、

とかはいい意味でできるかもしれない。

逆に考えると、お互いに自立能力がないと、

どちらが先に、いい意味で天に召されてしまっても、

いい意味で困るかもしれない。

私も自分で料理、洗濯ができるに越したことはないかもしれない。

自立に関して、今以上に関心が強かったら、

いい意味でもっとつめたい人になっていたのだろうか。

どうなんだろう。

いい意味で、まじめに料理と洗濯を勉強しようとしたら、

noteしたり、ギターを弾く時間がいい意味で少なくなるかもしれない。

そういうものかもしれない。

例えば、いい意味で毎日じゃなくて、

曜日を決めて、私が料理する日、彼女が料理する日。

私が洗濯する日。彼女が洗濯する日。

私がお風呂掃除する日。彼女がお風呂掃除する日。

私が買い物する日。彼女が買い物する日。

とでわけるのもいいかもしれない。

障害者枠の一般就労だから、

6時間労働で、

午後4時半には家に帰っていたりする。

今日の夕飯を買ってくる時間は、いい意味であるかもしれない。

明日のお昼、と朝ごはんもこの時買えばいいかもしれない。

近所のスーパーに買いに行って、

午後4時45分には、スーパーについて

1時間買い物したとして、

午後6時くらいには帰ってくるかもしれない。

温めたらすぐ食べられるお弁当🍱だとしたら

午後6時半までに食べ終わるかもしれない。

今日の、想像は、いい意味でこれくらいにしてみるかもしれない🗼🔮🌈















楽しくて得られるものが多いクリエイターになります⭐️⭐️🗼🔮🌈