見出し画像

嫌われるくらい、自分勝手に生きたい気持ちもある。愛、友情、物質などなどに満たされたら、そのような気持ちを隠すしかなくなるのか。嫌われるんじゃないか、と思いながら綺麗事を絞り出す、ような生き方がなんか合っている。

はー。そのような気持ちは隠すしかないのかね〜。
嫌われるんじゃないか、と気にしながら
綺麗事を絞り出す ような生き方が
合っていると思うね。

幸せになりすぎると これまでの生き方が
合わなくなる。

お金は使えば直ぐなくなるのだから
お金を使って幸せを感じることに依存しないように
と、よく思う。

必要最低限のお金で、工夫を凝らして生きれている方が
自分には合っていると思う。
何千日単位で練り込んだ思念だ。
そこまで裕福な家庭じゃないから、
自分より裕福な家庭に生まれた人の価値観は
鵜呑みにしてはいけないと思う。

ただ劣っている、として生きるのも嫌なので
逆に、必要最低限のお金で、どれだけ禁欲して
生きられるか
みたいな方向に考えるのがカタルシスになる。

同じ土俵に立てば、劣っているだけになる。
立つ土俵を変えて、真似できない、と言わしめるような
生活をしたい。

人それぞれ、価値観が違う、と よく自分も言うけれど
一周 周ってそういう感覚になるのも
あるあるなんじゃないのか。

潤沢にお金があっても、あまり使いたくない。
そんな甘い妄想なんてしたくない。
数千日単位で練り込んだ思念。

同情されて金や物をもらえる機会があったとしても、
数千日単位で練り込んだ思念は変えない。

自分の稼ぐ力がなかったり、
生まれ育った環境だったり、
遺伝子的なものもあるかもしれないけれど、

全部、全部、笑いたい、気持ちだ。

相手に合わせる時は、
人当たりがいいペルソナを表に出すのだが。

自宅に戻ると、そうじゃない方が戻ってきて、
全部、笑って感情を処理するような気持ちになる。

後頭部に張り付いたどぎつい道化が、
(切れ目で 赤鼻で 血の匂いがするような)
笑うのだ。

憎しみを思い出させようとする。
満場一致のパラドックスを思い出させる。
調和の裏には誰かが本音を隠している
ことを特に思う。
調和させるためなら 自分も本音を隠す時もある。
未だに 憎しみ を必要な感情と感じるのは
隠した本音を蘇らせるためだ。

本音で生きる、馬鹿正直に生きる
ことが素晴らしいわけでもない。
嗤える。

やはり、調和を作り出すためなら、
本音を隠すこともあるだろう。そう感じる機会も多い。
嗤える。

しかし、それをわざわざ、「演じる」などと表現するのも寒い。
嗤える。
それが常になれば、わざわざ「演じる」と表記して
普通と違う感をアピールしなくてもいいと思う。

わざわざ、「演じる」という言葉を頻繁に用いないのは
普通と違う感を出したいという
承認欲求に打ち勝つためだ。

見えないところで、自分と常に勝負をしている。
それも嗤える。

結局は、何かが欠けた環境で育てば
何かが歪んだ思念をその後の人生で練り込み続けることになると思う。
と言っても、何も欠けていない環境で育てる人間は
いるんだかいないんだか(極小数だろう)。
大半の、人間は、何かが欠けた環境で育つから
何かが欠けた思念を数千日単位で練り込み生きる。
何も欠けていないと認識を持つ人の その瞬間 完成しているような発言に
いい意味で後ろめたい感情を持つこともある。
(その瞬間 と表記したのは 3日後 そういう認識の人に
不幸があるかも知れないからな。
その人は その時 改めて考えることになるだろう)

先ほども書いたが、何かが欠けた環境で育つことは
珍しいことに思えない。
社会の真実を追求する責任感を思えば、
調和の裏に隠された本音と憎しみも、
放置したくない、という感情も出てくる。
それも正義の使者を気取っているようで嗤える。
正義の使者を気取るなら、正義の使者にふさわしい行動・態度をしなくてはな。
それも難儀なことであるため、わざわざ高いハードルを選ぶ様子に
嗤える。

調和の裏に隠された真実を、
放置し続けてもいい、と思えない。

しかし、誰かが覚悟を持って本音を隠したおかげで
調和が作られるのだとしたら
わざわざ、隠された本音をひきづり出すのは
野暮だ。

私も、調和を作るために、本音を隠したこともある。
隠した本音をそのまま書くことはないけれど、
概念的な読み物になるように、書いて、
本音を隠したことに納得し、嗤う。

これが私なりの、生き方だな。
不特定多数が見ているからこそ、
読み物として成立する「毒」
を供給するのは
楽しい。

正義の使者として相応しい行動を心がけるように
わざわざ、高いハードルを自分で選んでいる。

誰も(不特定多数が)見ない、下書きに書くのは
簡単でなんの責任も生まれないけれど、
それだと、後ろめたい秘密が増えるだけ
だと感じる部分もある。

誰もが何一つ欠けない環境で育つことはできない
それを真実だと思うため
やはり 社会の真実と向き合おうとすると
ある程度の「毒」は許されると思う。

しかし、読み物になる「毒」もあれば、
何一つ前向きなものが得られない「毒」もあり、
自分は前者を書こうとするし、
後者が嫌いだ。





楽しくて得られるものが多いクリエイターになります⭐️⭐️🗼🔮🌈