新しい喜びを知るには、対価を支払わないとな。
新しい喜びを知るには、対価を支払わないとな。
デュエマ🃏も、卓球🏓も、ゲームも🎮♟️🕹、ギター🎸も、
全部、対価を支払ったから楽しみを知ったのだ。
精神的苦痛を抑え、新たな喜びを知るために、
対価を支払ったことを思い出すと、
世界の理は、常に各人の喉へ、
厳しさというシビアな刃を突きつけているように感じ、
それに嫌気を感じるのか、
下劣な笑い声(こぶしを強く効かせた声でHAHAHA、と話す感じ)
を出して感情を整理したくなるような私もいる。
世界を形作るルールに対して、ファッ◯ン、と想起するような感覚だ。
反抗的な僕らには理解できる感覚だ。
何の対価も支払わずにも新たな喜びを得ていたら、自身のためにならない。
何の対価も支払わずに新たな喜びを得ているとしたら、
周りが代わりに対価を支払っていると思う。
善良という言葉に自身の精神を照らして考えた時、
周りに代わりに対価を支払わせていることは、
それが常で良いのか、考えるようにしている。
無論、私は障害者手帳を持つ、2級障害者であり、
障害者雇用で一般就職している立場であることは常に勘案する。
健常者に、代わりに対価を支払ってもらい、新たな喜びを獲得する、
という循環にも、疑いを持たず享受する精神も、
時と場合によっては必要だ。
新たな喜びを得るために、対価を支払うことを喜べるように、
自身の精神を作っている。
新たな喜びを得るために、対価を支払うことをポジティブに考えられないと、
何となく残念な人になるような気がする。
楽しくて得られるものが多いクリエイターになります⭐️⭐️🗼🔮🌈