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ほんと。就職頑張ったよなって改めて思う。

良識がある人なら、働いていない障害者を、

責めることはないと思う。

自分は偶然
(本人の努力もあるが、
障害者雇用という規格では働くことができるだけの
素質を初めから持っていたのなら、運がいい、と言おう)
働くことができているけれど、
働くことがどうしても合わない(できない)障害者もいるんだろう。

そういった人達を羨ましいとは思わない。
自分が苦労しながらも就職訓練している間、
働くための訓練もせず、生きている人もいただろうけれど。
(そういう自分も23で就職である。
大卒なら自然だが、そうではない。
専門学校を中退後、のんびりぬるま湯に浸かっていた時期もある。
要するに人のこと言える立場かあやしい)


単純に、家族を支えるには自分の稼ぎも大事だ。
安易に愚痴や泣き言を言いたくない。

自分がどういう気持ちで就職の訓練をしていたと思う?
仮に私が、B型、A型で働く状態で止まっても
周りに責める人はいなかったと思う(それ自体がほら運が良く恵まれている)。

そういう状態において、障害者枠での一般就労を達成しようとする
私の気持ちがわかるか?
家族を支えるにはお金が必要だからという面もあるけれど、
純度の高い挑戦だったんだ。

一般就職をしなくても、周りは優しいから責めることはなかっただろう。
でも、それを未来として、簡単に望むのは
弱い人がすることだ、と自分に言い聞かせる。
弱い人にはなりたくない。
障害者枠で一般就労しても、年収は低い。
(ちなみに年収の平均は、一部の富裕層が底上げしているため、
庶民の年収というのは、平均年収よりも更に低い、ということを知っている。
エビデンスの表示は得意じゃないからできないけれど、
調べればそういう情報が出てくる)
6時間の労働なので、負荷は少ないけれど、月収は低い。
(月収を犠牲にしてでも、負荷の少ないことは大事だと
納得している)

結局は、水準視点だと、自分も一生涯、弱いことになる。
しかし、水準視点で見ることだけが正しいわけじゃない。
そうじゃなかったら、福祉事業はここまで広がってこなかっただろうよ。
弱者に寄り添うことは、弱者の視点に立つ、ことであり、
水準視点で、そこから下回るもの全てを、
見下している場合、
一生涯、弱者に寄り添うことはできない
(から弱者の視点に立つことはできない)。

そもそも、弱者の視点に立つ必要があるのか?
というのは
愚問だと思う。

弱者の視点に立つことに何の意味もない、と考えるのは
これまで失敗を知らない人間か、
サイコパスだけだと思う。
優しい人は弱者の視点に立つ意味を知っている。
(たとえ自分が強者であっても)

大体の人は、弱者の視点・立場に寄り添う意味を
直感で理解できるから、
万が一、それを直感で理解できない人がいたとき、
その人を嫌うだろうな。
嫌う権利がある。
嫌う権利は意外とあったりする。
本人が忘れていても嫌う権利というのは常に誰もが持っている。


まあ、結論、一生涯、弱い層に入っていたとしても、
より次元の高い人生を歩みたい。
B型・A型で働くよりも、一般就職の方が
次元が高いと思う。
支援者は、オブラートに包むかもしれないけれど。
助けられる側の障害者、として
同等だと思える仲間を見渡した時、
そう思う機会は多かった。

周りの影響を受けやすい、自分ではあったけれど、
B型・A型で満足・納得している人と同じになりたくない、
という意識を持った。

そういう感情を隠しながら、訓練に取り組む毎日。
仮面を被っていれば、あらゆる面倒く臭さに杞憂せずに済む。
就職が決まって安定したと判断するまで、
仮面を被る意識はずっと続いていた。
言いづらい感情も隠して取り組んで結果を出せるのが大人だと、
そうできない人との間で、心は線引きをしていた。

優しければ就職できるわけでもない。
もちろん、優しくなかったからといって就職できるわけでもない。
(協調性を取り入れられない人は仕事ができない人)

優しさに甘えず、結果を出すことに集中できる人になれれば
優れている、と評価されやすい。

会社は、忠実に業務をこなしてくれる人が、大好きだと思う。
色んな長所・短所がそこに追加されて、
個性豊かな人材を活かせている豊かさが、
いい職場にはあると思う。

やっぱ、忠実に業務をこなせない人を
雇いたいとは思わないだろうよ。
人それぞれ個性が違うからAさんに求められることが
Bさんに求められない、こともあるかもしれないけれど、
忠実に業務をこなせない人はどう考えても良くない。
こなす、というのだから、会社が求める水準をクリアする必要がある。
ただ忠実なだけでも、良くない。

楽しくて得られるものが多いクリエイターになります⭐️⭐️🗼🔮🌈