何かの専門家だと説明できるほど、知識に特化していない。けれど、心をプラスαして生きている。
わたしは、何の専門家でもない。
専門家の雰囲気を、雰囲気だけでも持つこともない。
飽き性だということと、専門家になるってことは
特定の分野には詳しくなるけれど、視野が狭くなるになるイメージがある。
専門家でも、博識な雰囲気の人もいるけれど、
悪いタイプの専門家は、特定の分野に対する絶対的な自信を武器に、
自分より理解度がない、理解力がない人を非難するイメージがある。
そういうイメージなどがあるから、
専門的な知識を入れて、視野が狭くなったらどうしよう、
特定の分野に絶対的な自信がついたけれど、
その分野に理解が足りない人を見るともんげえ苛々してしまうんじゃないか
(そういうパターンの感情を持ったこともある)。
という懸念があり、
専門的な知識は一度、自身の知識網を通しても、
要らない記憶として認知し、全方向から弾き飛ばすモノとして処理する。
将棋の要領を頑張って覚えたとしても、
覚えた瞬間から全力で忘れようとする予定だ。
自分の中で、本当に好きと設定しているもの以外は、
覚えた瞬間から忘れる予定だ。
そのため、化学元素は一般的にどこまで言えればいいのかも
全力で忘れたし、大部分は全力で忘れた。
それに対し、賛否両論あるだろうけれど、
学校で教わったことを丁寧に覚え続けていても、
それを活かした職業に就かないと意味ないと感じるところがある。
最終的には、どの道に進むか、という意志が必要で、
意志のないインプットは意味がない、と思う。
紆余曲折あったけれど、今の仕事に就く、と決めたのは自分の意志。
専門的な知識は必要ないけれど、あらゆる意味で自分に合っている仕事、職場。
体力、忍耐力、コミュ力、ビジネスマナー、などさえあれば、
いい意味で私じゃなくてもできるかもしれない。
だからこそ、心をプラスαすることを意識している。
私によって、この仕事が行われたことに、
ハッピー、と思ってもらえるような気持ちで、
仕事に取り組む。
高校の時は、デュエマの公認大会(32人規模)で、
何度も優勝した。
それもある意味、専門的な知識があるから、実現できたこと。
その時のことを参考にすれば、専門的な分野こそ、
勉強を1ヶ月、2ヶ月でもサボれば、
感覚を取り戻すまでに違和感がある時間が大きいと思う。
高校の時は、そういう華やかなデュエマプレイヤーだったんだけれど、
もういい意味でデュエマはよくわからない。
専門的な分野に取り組み続けた人が、その分野から足を引いた時、
訪れる課題は、ついつい過去の栄光に
縋り付きたくなるということかもしれない。
私は、いい意味で飽き性だから、一つの分野を駆け抜ける、
ということはなかったな。
ひとつの分野を駆け抜ける気質だったら、
YouTubeももっと、マシにできていたかもしれないな。
1番好きな女の子も定期的に変わる学生だったからな。
一番最初に好きになった子と結ばれなかったとしても、
私がもうちょっと一途気質だったら、今頃、もう童◯じゃないだろうし、
もしかしたら子供もいたかもしれない。
まあ、そのようなことを言っても仕方ないけれどな。
まあ、草食系だから、二次元の女の子にも興味を長く持ったし、
いろんな刺激を潜り抜けて今日に至るよな。
実際に、やってしまったら、私じゃない気がする。
純粋、を体現した状態を、頭で理性で冷静に考えたら、
今のような生活状況を繰り返す、
という発想があるんだよね〜。
心という武器に特化しているのかもしれない。
心というものが、私のナチュラルウェポンで、
それ以外の人工的な武器は馴染まないだけかもしれない。
得するためにこのナチュラルウェポンを磨くんじゃなくて、
ただ心というものが価値があるものだと示すために、
この武器を磨いているだけなんだよな。
だから利益を寡占しよう、という考えは、
私に馴染まなくて無理があるんだ。