noteでは粗い私の細い感覚が承認されている。
noteでは粗い私の細い感覚が承認されている。
粗い感覚とは、いい意味でバイアスがかった状態に抵抗のない感覚だ。
バイアスから完全に解放されることは難しい。
しかし、自己理解を深めれば、自分が見えてきて、
行動選択の傾向を改善することができる
私は、いい意味で感覚が粗いと思っている。
男性的な男性は、いい意味で感覚が粗いと聞くため、
そこに疑問を感じることはない。
粗さが、いい意味で男らしさ、かもしれない、と
ポジティブに考えているところもある。
いい意味で感覚が粗いため、不安症、心配性、とはかなり程遠い。
不安になっても、心配をしても、仕方なくないか❓
というバイアスが作用し、
不安と心配は断ち切ることができる。
それは、自分一人では全てを行うことはできないという理解と、
周りを信じる気持ちがあるために、
実現できているものだ。
周りの力が、不足していると直感的に思う場合は、
不安や心配をする気持ちが生まれるかもしれない。
就労移行で自己理解を深めてよかった。
周りに恵まれてよかった。
自己理解が深いから、自分一人で全てはできない、
と受け入れることが叶っているし、
信頼可能な周りに恵まれているのは運がいい、奇跡、と言えるかもしれない。
(信頼に値する、も、信頼可能、も同じいい意味だけれど、
前者は思考で判断している感覚を強く感じるため、後者の表現を使用した)
noteでは、いい意味で粗い私の、細い感覚
(粗い人の細い感覚)
が受け入れられていて、幸せだ。
粗い人も、細い感覚を覚えていかないと、成長できないため、
細い感覚を覚えることは必須。
逆に、細い人も、ストレス耐性を付けるために、
粗い感覚も取り入れることが効果的な場合もある。
粗い人の細い感覚。
細い人の粗い感覚。
粗さだけでも、細かさだけでも生きていけない。
いい意味で自分にない感覚を取り入れ、他者と協力ができるようにする。
粗いままでいい、細かさを覚える必要はない。
細いままでいい、粗さを覚える必要はない。
と教科書に載せられることはなかった。
もしかしたら、日本の教育が遅れていると言うことかもしれない。
日本の教育が遅れている、と言う話は、他のnoterのページでも目にするからな。
粗いままでいい、細いままでいい、とは教科書に載っていなかったし、
教師も親も、就労移行でも教わらなかった。
逆に、違う価値観を持つ人の感覚を理解するように教えられた。
そう言う教育でよかったと思う。
違う価値観の人のことは、知らなくてもいいよ、と教えられていたら、
心の中で、敵、と認識する人間の数が今より多かったかもしれない。
もしくは、ものすごく恵まれた環境で、
本当に、違う価値観の人のことを知らなくてもいいよ、
という環境で育ったなら、
今よりも、ふわふわしていたかもしれない。
違う価値観の人のことを知らなくてもいいか、と思って生きていると、
ちょっと匙加減を間違えただけで相手の逆鱗に触れるかもしれない。
違う価値観の人のことに対する理解が十分あれば、
どのようなことを言ったら相手が傷つくのか、
どこまでが常識的に許されるのか、
と言う理解が上手になる。
逆に、違う価値観の人に対する理解が十分なければ、
どのようなことを言ったら相手が傷つくのか、
どこまで常識的に許されるのか、
と言う理解が追いつかないといえる。
違う価値観の人のことの理解を進めたのは、
私の中で財産だ。
相手を傷つけることもないし、
どこまで常識的に許されるのか、
それをわかっていることはアドバンテージだ。
自分のためだけじゃなく、みんなのため、
社会のために身につけることがすすめられるスキルだ。
そのため、自分とは違う人の価値観を理解しようとしない、
または理解が追いついていない人間に対しては、
いい意味でドライな態度を取ろうと考えている。
もしも、そのような人物に対して、誰もが冷淡な態度をとるならば、
私はいい意味でドライでありつつも、必要以上に突き放さず、
成長の機会を提供できるような人であろうと思う。
違う価値観の人を理解することは、社会のためでもある。
もしも、そのような人物がいたなら、一個人の感情をぶつけることは避け、
社会のためを思って、成長を促すような態度を取ろうと思う🗼🔮🌈