繊細なうつくしいなにかのことを考えるときに視線が下瞼をなぞってしまう理由
さっきからずっと手は止まったままで
けれど私の眼球は、指で月の輪郭をなぞるように自分の下瞼のふちをなぞりながら、行ったり来たりを繰り返している。
別に何かを見ているという訳ではなくて、
ただ自分の内面という見えないところを意識の左手と右手で手探りするときの、私のクセなのだ。
ボディランゲージ的に目の動きには意味があって
ボディランゲージの分野では、私たちは何か考えたり想像したりするときに
視線を自然と動かしてしまうらしく、たとえば左下から右下を行ったり来たりするのは
・左下→ 「じっくり自分自身と対話して考えている状態」
・右下→ 「触った感じや、体で感じる感覚、感情にアクセスしている状態」
その他に上下左右だと
・【上】は視覚、【横】は音、【下】は体の感覚の情報に
・【左】は過去や記憶の、【右】は未来や未知の情報に
触れているときの動きだそうですよ。
うん、確かに、今わたしは感覚を確かめながら考えている、
「繊細なものたちはどこにあるのだろう?」と。
私が欲しい繊細なものたちは何処に?
ただ脆く、こわれやすく、細やかで、はかない
見過ごされやすくてささやかなものであればよいのではなくて
触わったり眺めると、こちらの気持ちが震わされるような「共振反応」を起こす、そういう繊細さをさがしている。
あれはどうだろうか?これは?と思いつくものを浮かべては、眼球を内側にくるりと向けて心の視線でなぞってみる。
なにか胸の奥の水が、細胞が震えるものが起きてくるだろうかと
確かめて何も起きてこないものを意識の沼へとポチャンと帰す。
今日はなかなか見つからない。
私が探しているのはたとえばこんなもの。
『ここにすばらしくフラジャイルな一個のタンブラーがあるとする。ヴェネチアン・グラスか何かでできていたとしよう。
このタンブラーを割るのは簡単だ。窓から投げつけてもよいし、石畳にたたきつけてもよい。
が、それでタンブラーにひそんでいたフラジリティを壊したことになるのだろうか。(中略)
われわれはタンブラーという名前の事物を割っただけなのである。(中略)
フラジリティはもともとそんな全体には宿ってはいなかった。
フラジリティは割れた光の粒そのものだったのだ。その印象なのだ。ホワイトヘッドの「点-閃光」だったのだ』
(松岡正剛 「フラジャイル」より)
そう、時に私たちを震わせるのは、あるとても美しいものが持っている
壊れたり傷ついたり終わったりする【かもしれなさの気配と予感】であり
あるいは破片となった瞬間にヴェネチアンガラスのまわりに漂うものであり
その事物のあたりに感じるバイブレーションに触れることだったりするんである。