人生で一番頑張った高2のお話
高校を卒業して早3年。高2のあの時からはもう4年の時間が経ちました。
久しぶりに附高祭有志代表と高校2年生の時の話をしたことがきっかけとなり、せっかくなのでまとまった文章の形に残しておきたくなりました。ほぼ自分の記録用なので読みにくいところもあると思いますが、読んでいただけると嬉しいです。
「人生で一番頑張った」と思うのはいつですか?
私は高校2年生の1年間です。今になってやっとあの1年間を振り返ることができます。
高校2年生の1年間私は学校行事に必死でした。
附高祭では模擬店委員会の書記でした。音祭では有志代表・推進委員長でした。百粁の特別隊にも参加していました。(コロナで実現できず…悔しい!)あとはSSHの研究、アジアスタディ、ホームステイの受け入れ、PeaceProject、科学英語の冊子づくりなどなど盛りだくさん!
その他学校以外では、台湾に研修に行ったり、サンタに扮して子どもたちにプレゼントを届けるボランティアをしたり、ミュージカルの公演に出演したり、とにかく盛りだくさんでしたね。
書き並べてみると、改めて自分でも驚きです。
当時は毎日が楽しくて楽しくてたまらなかったことを覚えています。附高祭の原案可決後から音祭終了までは毎日の睡眠時間が3時間くらいの生活をしていたようですが今の5倍は元気だったし楽しかったことが不思議です。
附高祭について(4月〜9月)
はじめは、附高祭有志のメンバーに音祭にも協力してもらうという条件のもと私は附高祭有志に入りました。実際に附高祭のために動き始めると、そんなことは関係なく純粋に附高祭を創り上げていくことを楽しんでいました。下校時刻が過ぎても仕事が終わらなくてみんなで夜中まで学校の前の公園でパソコンを打ったこと、連日深夜の3時まで開催されるDiscordの通話などもとにかく楽しかったです。
模擬店委員会が大もめしたことや、先輩が教室に来るのが怖くて休み時間のたびに他のクラスや自治会室に逃げていたこともありました。(今だから笑い話です。先輩本当にすみませんでした。)
各委員会締め切りを守るのに必死でどこかの委員会が危機に瀕するたびに励まし合っていた気がします。
委員会単位では収まらなかったけど誰かがすべき仕事をこなしていく総合雑務委員会が非公式に発足していました。気づいたらメンバーになっていましたが、とにかく楽しくて必死に仕事をこなしていました。
限界を迎えて涙する運営委員長を励ましたこともありました。
私を含め社畜組の睡眠時間はたびたびネタにされていました。
附高祭期間を振り返って思うことは、とにかく楽しかったんです。後述する音祭期間と比較して、純粋に楽しくて、「附高祭」を実現したくて、という気持ちが強かったんです。いい意味で責任感を感じすぎていないというか、「楽しい」「やりたい」の気持ちだけで行動できていたのが自分にとってとても幸せでした。この期間は紛れもなくキラキラの「青春」です。附高祭前夜に感じたあり得ないくらいのワクワクとドキドキ、本番中は仕事漬けだったけど終わった後の達成感、満身創痍で戦い抜いたやり切った感や出し切った感は何物にも代えがたい経験でした。
音祭について(9月から11月)
音祭が自分にとってどのようなものか一言で表すなら、「恋人」を選びます。大好きでたまらなくて、そのために努力したい、頑張りたい、自分を高めたいと思わせてくれる存在だったからです。
音祭が始動していくときに自分に誓ったことは「何があっても私が”背負う”」ということです。この音祭は”私の”戦いであると考え、すべての責任を負うことを決めました。もちろん支えてくれる仲間の存在なしにはできなかったことだし、ありえないくらい助けてもらいました。本当に感謝してもしきれません。ただ、自分の中でしっかりと覚悟を決めたことは私にとってとても重要なことでした。
音祭期間はとにかく必死でした。いわゆる「ゾーン」に入っていた状態でしたね。「普段ポンコツなのに、音祭の時だけはまじでしっかりしていた」と他の人からも評価されているのできっとそうだったんだと思います。とにかく頑張っていました。
普段は泣き虫な私ですが、音祭期間中は一度も泣きませんでした。推進委員会はうまく進まないことが多かったし、普段の私なら泣いてしまうような場面はたくさんありました。でも泣かずに必死に目の前のことに取り組んでいました。正確に表現するなら、泣いている余裕さえなかったんだと思います。音祭期間のことは必死すぎて記憶が飛んでいることも多いですが、自信を持って言えます。楽しかったです。音祭有志代表・推進委員長を経験できたことは一生の宝物です。
附高祭期間に引き続き睡眠時間は削られていたし、授業中も音祭のことばっかり考えてました。内職もたくさんしていました。(先生本当にごめんなさい。)なぜか気づいたら代表みたいな役割になっていた気がするSSHのホームステイ受け入れの諸々や研修旅行など他の行事が時期的に被っていたのも大変なポイントでした。
お弁当を食べる時間がないのでお昼ごはんはおにぎりとカロリーメイトだけにしてもらったり、2階の寝室に行くのがめんどくさくて1階のリビングに勝手に布団をひいて怒られたり、少しでも寝れるように最寄り駅まで車で親に送ってもらったり、振り返るとやばいことやってるし迷惑かけまくりだったのに応援してくれた家族には感謝しています。
とにかく必死で迎えた当日。インカムや携帯での指示出しや統括に一生懸命でした。正直必死すぎてあまり覚えていないし、失敗もあったけど、憧れ続けた「音祭」を実現できて心の底からほっとしたことを覚えています。最後の挨拶で、前音祭推進委員長の先輩と支えてくれた仲間の顔を見て感謝の気持ちでいっぱいになりました。音祭に関して初めて流した涙は感謝の涙でした。音祭期間で泣いたのはこの一回だけです。
その後(12月から2月ごろ)
附高祭・音祭期間中にも前述したように同時並行でいろんなことがありました。音祭終了後は、ホームステイを受け入れたり、SSHの研究を進めたり(乳酸菌の研究だったので実験に時間がかかるし実験室じゃないと研究が進められないのが大変。パソコンがあればできる情報系数学系の研究が羨ましかった!!)、アジアスタディに行ったり、科学英語の冊子を作ったりしていましたね。睡眠時間はある程度伸びたもののまだまだやることが盛りだくさんだったと思います。科学英語の冊子が何気に1番大変だったかもしれない…笑
科学英語の冊子は、知らないうちに責任者?みたいなのに任命されていて、放課後に先生から電話がかかってくるのがめっちゃ嫌で電話を取らないこともありました。(本当にすみません。)これ以外は「自分がやりたくてやっていたこと」だったけどこれは「やらなければいけないこと」だったので他のことと同じモチベーションで動くのは難しくて結構辛かったです笑
この辺りから若干体調を崩していてこれまでほぼ皆勤賞だった学校を休んだり午後から登校することが何度かありました。
コロナによる休校期間(3月ごろ)
そして忘れてはいけないのがコロナによる休校です。春休みに入る少し前、突然学校が休校になりました。突然学校に行かなくて良くなって、毎日家でのんびりする日が訪れました。
ここで自分の中のスイッチが切れてしまったことによってめちゃくちゃ体調を崩しました。というか多分病んでたと思います。とにかく起きれなくて毎日14時間くらい寝てました。
春休みの期間はファイナルの作成期間だったのですが、附高祭ファイナルは取り仕切ってくれる人がいて自分の担当部分もある程度限られていたのでなんとか完成させることができました。取りまとめてくれたみんな本当にありがとう。音祭ファイナルは結果から言うと完成させることが出来ませんでした。特に後輩のみんなには本当に申し訳ないです。本当にごめんなさい。あくまで言い訳でしかないということは分かっていますが、1番大きな原因は私の体調不良でした。音祭は楽しかったです。幸せでした。私は音祭が大好きです。自信を持って言えます。ただ、この時は音祭の資料を前にするとしんどくなってしまってどうしてもファイナルを作ることが出来ませんでした。記録に残しているわけではないのであまりしっかりとしたことは覚えていませんが音祭の夢もよく見ていました。ちなみに4年経った今もごくたまに夢に見ます。(本当にごくごくたまにですが)自他ともに認める超楽観主義&ポジティブなのでまさか自分がこんな体験をするとは思っていなかったんですが、実際に体験すると驚きました。繰り返しになりますが、私は音祭が大好きで本当に楽しかったんです。この気持ちに嘘はありません。ただ、だからこそ自分でも気づかないうちに頑張り「すぎた」部分があったんじゃないかなと思っています。音祭だけが原因ではなく、それまで蓄積されてきた睡眠不足とか、休校になって急に生活様式が変化したストレスとか、自分で気づくことも気づいていないこともいろんな原因が重なった結果なんだと思っています。
この1年間から学んだこと
この1年間で学んだことの中で私が最も価値を感じているのは「自分はこんなにも頑張れるんだ」とわかったことです。
本当に有難いことに、それまで「頑張る」ということをせずとも何かと上手く行ってしまった人生を歩んで来れました。頑張っていない訳ではないけど、だいたい5~6割の力で自分のやりたいこととか他の人が求めることとかは何とかなっていました。あとものすごくサボるのが上手い笑
だからこそひとつに集中せず一度に複数のことをすることができたわけです。
話はそれますが、私が芸術を好きな理由はここにあります。一定のところまではそれなりの「頑張り」でできたとして、それ以上に自分の求める芸術に正解はないし好きなように創造していけることが楽しいと感じます。頑張る頑張らないとか人からの評価とかに関係なく自分自身で価値を創造できることが好きです。
頑張らなくても大丈夫なこと対して大きな不満があったわけではないものの、「このままずっと頑張らなくていい人生なのかな」という不安みたいなものと物足りなさはあった気がします。ですが、高2の1年間は自分の持てる限りの力を使って「頑張った」と言えます。
「自分は頑張った」と自信をもって認められる経験ができたことが私にとって本当に幸せで価値のあることです。「人生で一番頑張った」1年は同時に「人生で初めて頑張った」1年でもあると思います。この経験があったからこそ、自分に自信を持つことができました。この先の人生で困難に遭遇しても、高2の1年間でこれだけ頑張れたんだからこれからもきっと頑張れる、どこに行っても何が起きても乗り越えていけるという確信を持つことができるようになりました。経験と思い出は誰にも奪うことができない自分だけの宝物です。
そして同時にいくつかの教訓も学びました。
まずは、「心身の健康を犠牲にして頑張るのは良くない」
体調を崩してから改めて健康のありがたさを感じました。これに関しては体調を崩して初めて身に染みて分かったことなので、ぜひ今後も気を付けていきたいです。楽しすぎるあまり気づかないうちに心身に負荷をかけてしまうことはきっと誰にでも起こり得ることだと思います。楽しいことはもちろん大事ですが、健康とのバランスを考えることを頭の隅に置いておきましょう。
そして、「泣くほど嫌なことはまだ泣く余裕があるうちにやめておく」
人生をいかにハッピーに生きるかは自分次第。嫌なことに限りある大事な時間を割く必要はありません。余裕がなくなると自分の気持ちに関して正常な判断ができなくなってしまいます。なのでまだ余裕があるうちに自分を大事にする選択をおすすめします。
最後に、「周りの人を大切に」
なんだかんだあった1年間を乗り越えられたのは家族や友人をはじめ、関わってくれたみなさんのおかげでした。どれだけ感謝しても足りません。やっぱり1人では何もできなくて、至らない部分や未熟な部分が山ほどあってありえないくらいの迷惑をかけたと思います。たくさんのごめんなさいとありがとうを伝えたいです。支えてくれる人の温かさに救われた1年でした。私が「頑張れた」のは周りの人たちが「頑張らせてくれた」おかげだと思っています。支えてくれた人、助けてくれた人の存在なしには語れない1年間でした。私は人見知りだし人付き合いも苦手だけど、周りの人への感謝を忘れず、少しでも恩返しをできるように頑張っていきたいです。
楽しいことが山ほどあって、大変なこともあったけどとにかく幸せな1年間でした。たくさんの人に支えられ助けられて成長できた1年だったと思います。こんなに「頑張れる」経験はこの先何度もできるわけではないと思います。もう2度とないかもしれません。どちらにしても、この経験ができたからこそ今の私がいるし、これからも困難のたびに思い出すことになるんだろうなと思います。
なかなかまとまらず、長文になってしまいました。読みにくいところが多々あったと思いますが、最後まで読んでいただき誠にありがとうございました。
コメント、メッセージ等お待ちしております。