逆張りと冷笑について
インターネットの発達した現代において、特にネット文化に親しみのある人なら聞き覚えも多いだろう逆張りという言葉。
この言葉に聞き馴染みのある多くの人はこの言葉を知る前に逆張りを行っていたのではないか。
逆張りは一種の麻薬のようなものである。手軽に他者と差別化点を見つけてアイデンティティを確立できる。しかも心理的に相手より上の立場として振る舞うことさえできる。
私は逆張りは少年少女の精神発展一環として避けては通れぬ道ではあると思うのだが、逆張りをし続けて、ありとあらゆるカウンターカルチャー的な文脈に回収されずにただ、他者と違うだけの狂人が生まれてしまうということが最近増えているようにも思う。
現象としてはアダルトチルドレンというのだろう。精神の確立が行えないまま年齢を重ね未だ思春期特有の葛藤を胸にしまって生きている感性豊かな大人である。こういった感性を持つ大人が社会の中で果たすことの出来る役割は悩める少年少女の半ば自傷的、自罰的な思想に対して救いの手を向けることでありそれが芸術などの文脈で回収されていく。けれどもそんな彼らはどうにもやはり自分が大人であるという自覚が希薄であるために、逆張りという一種のマジョリティを形成してしまい、子供から逆張るという自由を奪い去ってしまっているように思う。
そして行き着く先が圧倒的個人主義かつ万物に対しての冷笑が行われる時代である。かつてアイデンティティ確立のツールとして用いられた逆張りは最早アイデンティティとはならず、そういった全ての文化を表面的に嘲笑し距離をとることがトレンドになっている。けれどもこれは逆張り以上に危険なものである。逆張りには一応の信念がある。大衆に迎合しないという目的を達成するには大衆を観察し、その核となる部分が何であるかを理解して、それから外れる必要がある。その努力すらも放棄したのが冷笑である。大衆文化に取り込まれながらなんとなくアイデンティティを確立した気になっている。
これも一種の逆張りであり、冷笑であるとは思うのだが拒否感を示すだけでなく何故それに拒否感を示しているのかを明示し、逃げ場を無くしておくことで、その反発精神の在処がどこにあるかを把握し多少は生きて行きやすくなるのではないのかなぁと思う。
かしこ