第四章 「現実を置き換える数学」
「あと一つ。あと一つだ..。」アナスタシアの声が予想外に響いた。この空間は音を反響するようだ。
アナスタシアと篠原は、疲労と興奮が入り混じった表情で顔を見合わせる。シュレーディンガーも、まるで彼らを誇らしげに、そして期待を込めて見つめているようだ。 空間が大きく歪み、最後の難問が姿を現れる。
アナスタシアと篠原は、言葉を失う。問題の規模と深さに、一瞬たじろぐ。
篠原が絶句する。
「私たちの理論の極限を試すものですね…」アナスタシアが震える声で続ける。
二人は互いを見つめ、その目に諦念と決意が入り混じった表情を浮かべる。
「ここまで来たんだ。最後まで挑戦しよう」二人は頷き、
彼らは問題に向き合い、議論を始める。シュレーディンガーも、まるで彼らを励ますかのように、複雑な軌跡を描いて動き回る。
「モンスター群と量子モチーフ複体の関係か...」篠原が呟く。
アナスタシアが続ける。「そうですね。ムーンシャイン予想との関連を考えると...」
二人は熱心に議論を交わし、アイデアを積み重ねていく。時折、行き詰まっては新たな視点を模索する。
シュレーディンガーの動きが、時に彼らのひらめきを導くかのようだ。猫の描く軌跡が、突如として複雑な数学的構造を想起させることがある。 時間が
過ぎていく。
$${残り1時間}$$
アナスタシアが突然立ち上がる。
「先輩!わかりました!」彼女は目が輝かせて、手をじたばたさせている。
「量子モチーフ複体の位相的ねじれが、モンスター群の指標と関係していて...」
篠原も飛び上がる。「そうか!そして、それがリーマンゼータ関数の零点の分布と...」
二人は矢継ぎ早に言葉を交わし、理論を組み立てていく。シュレーディンガーの動きが加速し、空間全体が共鳴するかのように振動し始める。 残り10分。 アナスタシアと篠原は必死に計算を続ける。理論の全体像が見えてきた。
「あと少し...」
$${残り10分。}$$
「できました!」二人が同時に叫ぶ。
篠原が我先にと続ける。「この理論が示唆する時空の量子構造を、以下の方程式系で表現できます!」
彼がホワイトボードに新たな数式群を書き込む。
アナスタシアが説明を加える。「これらの方程式が示すのは、量子モチーフ複体の状態$${ψ}$$が、直接的に時空の構造を決定しているということです。言い換えれば、量子モチーフ複体が時空の織物そのものを形作っているのです」
篠原が付け加える。「そして、この理論は現実の構造そのものを数学的に記述可能にしています。量子状態$${ψ}$$を操作することで、理論上は時空の性質を変更できる可能性があります」
その瞬間、空間全体が激しく揺れ動く。眩い光が彼らを包み込む。 光が収まると、そこには九鬼教授の姿があった。実体を伴った、確かな存在として。
「やりましたね。君たちは、数学と物理学の根幹を解き明かす鍵を見出した」
教授の声には、深い感動が滲んでいる。
「しかし、これは始まりに過ぎない。君たちの理論は、新たな数学の地平を切り開く可能性を秘めている。そして...」
教授の表情が厳しくなる。
「同時に、危険な力をも秘めているんだ」
アナスタシアと篠原は、困惑の表情を浮かべる。
「どういうことですか?」
教授はため息をつく。
「君たちの理論は、現実の構造そのものを操作できる可能性がある。言わば、"現実を書き換える数学"とでも呼べるものだ」
二人は息を呑む。
「そして、それを狙う者たちがいる。君たちは選択を迫られることになる」
教授の言葉が、重く響く。
研究室の空気が重く沈む中、アナスタシアと篠原はホワイトボードの前に立ち尽くしていた。時折、空間のゆがみが視界をかすめ、現実が不安定になっていることを思い出させる。
「まず、現状を数式化する必要があります」アナスタシアが口を開く。
篠原が頷き、マーカーを手に取る。「そうだな。我々の理論と現実の相互作用を表現してみよう」
二人は議論を交わしながら、次々と方程式を書き連ねていく。
アナスタシアが説明を加える。「これらの方程式から、理論の影響を抑制しつつ、現実を元の状態に戻す解を見つける必要があります」
篠原が眉をひそめる。「だが、完全に理論の影響を消し去ってしまっては、元の問題に戻ってしまう。教授を救出できなくなる」
その時、シュレーディンガーが突然鳴き声を上げ、方程式の間を軽やかに歩き回り始めた。
九鬼教授が息を呑む。「まさか...シュレーディンガー、お前もこの理論の一部だったのか」
アナスタシアの目が輝く。「そうか!シュレーディンガーは量子もつれを体現する存在...つまり」
篠原が続ける。「理論と現実をつなぐ架け橋になれる!」
二人は興奮して新たな方程式を書き加える。
「これで...」アナスタシアが呟く。
「ああ、理論を完全に消し去ることなく、現実への影響を制御できる」篠原が頷く。
教授が二人の肩に手を置く。「素晴らしい… だが、誰かがこの過程を"制御"しなければならない。そして、それは理論と現実の狭間に立つことを意味する。いわば"永遠の観測者"とも言える存在… つまり、自己を犠牲にするということを意味する…」
重い沈黙が流れる。
アナスタシアが一歩前に出る。
「私がやります」
「アナ!そんな簡単に決めることじゃない。まだ16年しか君は生きていないんだ。そして君にはこの学問を進歩させる、その素質がある。」
篠原が声を張り上げる。
彼女は微笑む。「大丈夫です、先輩。私には、量子の世界が見えるんです。幼い頃からずっと... きっとこれは運命なんです。」
アナスタシアはシュレーディンガーを抱き上げ、研究室の中心に立つ。篠原と教授が機器の操作を始める。 空間が大きくゆがみ、まばゆい光がアナスタシアを包み込む。彼女の姿が少しずつ透明になっていく。
「アナ!」篠原が叫ぶ。
彼女の声が、どこからともなく響く。
「大丈夫、先輩。私は…ここにいます」
光が収束し、空間のゆがみが安定していく。研究室に静寂が戻る。
アナスタシアの姿は、消失していたーーー。
教授が後悔の念とと共に、深いため息をつく。「彼女は、理論と現実の狭間で、永遠に両者のバランスを取り続けることになるだろう。私がミスを犯したばかりに…」
篠原は震える手で、アナスタシアの残した クラインの壺のミニチュアを握りしめる。その表面に、かすかに数式が浮かび上がっては消えていく。
「アナ…必ず、君を取り戻す」
彼は黙って立ち尽くし、空間のわずかな揺らぎを見つめる。そこにアナスタシアの存在を感じているかのように。 教授が静かに近づき、篠原の肩に手を置く。
「彼女は消えたわけではない。理論と現実の狭間で、常に存在し続けている」 篠原はゆっくりと頷く。
「わかっています。だからこそ...」 彼の言葉は途中で途切れる———
———猫の青い瞳が、不思議な光を湛えている。 九鬼教授は深いため息をつき、窓の外を見やる。夜明けの光が、ゆっくりと研究室に差し込んでいく。
「数学は時に、我々の理解を超えた現実を作り出す」教授が静かに呟く。
「そして、我々はその現実と向き合い続けなければならない」
篠原は "クラインの壺"を胸元に押し当て、目を閉じる。
部屋の空気が、微かに震える。
理論と現実の境界が溶け合う中で、新たな問いが生まれようとしていた。
$${第四章「現実を置き換える数学」完}$$