私はその地域で最後の1人となった年老いた漁師である。
妻と二人で暮らしている。
そこに取材で若い女性がよく来る様になり彼女は私達の世話をしてくれる。
それはありがたいことではあるがでも長く受け継がれてきた私達の漁は神との契約であり信仰を持たない外部の人間には知られてはならないものなのだ。
そこは気をつけないといけないだろう。
魚は死んだ者が姿を変えたものなのだ。
つまり川で泳ぐものも海を潜るものも皆死人になった成れの果ての姿が魚の正体なのだ。
多くの死がそうやって川や海に流れ着いてやがて魚になる。
でももう死体を川や海に流す習慣が潰えかけている今はそのまま取るべき魚も減ってしまい見切りをつけた多くの人々が漁師を辞めてしまった。
そうだ
元々川や海に多くの死を流して神に仕えてきたのがこの地域の漁師の一番大切な仕事だったのだ。
かつては戦争も小競り合いもそういった争いが多くて死は日常だった。
だからそれは多くの死を処理するのが大変でそのまま死を川や海に流していたのだ。
それはそのまま魚になったので私達が腹を空かせる事はなかった。
でもその恩恵に預かれるのは幼少期に神との契約を済ませて死を流せるものだけなのだ。
最近は戦争も小競り合いさえもなく医療も情報も発達した事で人が死んでも焼かれ流される事はなくなった。
そもそもこの地域での慣習を受け継ぐ者が居なくなり神への信仰を受け継ぐ者もいない。
神のおかげで寒く凍りついた海でさえ魚が上がったのに今は例え凍っていない水面の下にももう魚は居ない。
かなりながく死が流されていないので取れるのは小物ばかりだ。
私と妻は時々だが死体が燃やされる前に盗んで川や海に流しているがそれでもそれは何ヶ月に一度くらいの事なので私達がやっと飢えない程度にしか魚はあがらなかった。
もうここ何年も魚があがらない。
とりあえず年老いている事である程度だが行政の支援も受けられる
でもそれではなにも満たされないのだ。
私達は多くの死を受け入れてその生命の循環のようななにかを作る事で長い事その存在を許されてきたのだ。
ただ生きているだけでは許されないのだ。
ある日年老いた妻からの要請で彼女を最後の供物として海に流す事にした。
これだけ長く仕えてきた巫女のような存在の妻だ。
きっと大きな漁が私達を満たしてくれるだろう。
これがこの港の最後の漁になるだろう。
もうそのあとは誰もいない。
全てが遠い記憶の中に消えてしまうだろう。
だか秘跡とはそういうものなのだ。
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