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螢火

猫の爪のような月が出ている夜だった。
あたりは薄暗く、昼間の暑さが嘘のように、涼しい風が吹いている。

二時間おきの授乳を終えると、その月に惹かれるように、そのまま外に出た。
明日の朝にはここを出る。
恐らく、この子と過ごす最期の夜になるだろう。

出産して、丁度三週間。
雷に打たれたような激しい痛みとは、あのことだろうか。
しかし、元気に泣く我が子を見ると、その痛みさえ一瞬で忘れた。

出産予定日にちゃんと陣痛がきて、しっかり生まれてきてくれたお陰で、リツコも僅かな時間ではあるけれど、側にいてくれた。本当に心強かった。
その後、ゆっくりした時間を過ごしたせいか、体は驚くほど回復した。

後はこの集落で、孤児を集めた施設を引き受けてくれたご夫婦に、この子を引き渡すだけだ。

AAA Wunderを離れて二ヶ月が経っていた。
本来なら指揮官としてありえないことだったが、出産する為に、全てをリツコに任せてここに来た。
適当な病名をつけてもらい、静養するという名目で。

実際、彼を失ってからは、任務を果たそうと気力だけで生きていた。わたしは痩せ細り、お腹の中の子どもの命が危うかったこともある。

その時気づいた。
それまで、わたしの中に宿った命にあまり愛情を持てず、失ったものへの悲しみに囚われていた自分の愚かさを。そして、もし、この子まで失ったら、わたしは生きる意味を持たなくなることを。

なんとか危険な時期を通り過ぎた後は、この命が、失われずに済んだことに、心から感謝した。

リツコが烈火のごとく怒り、強い口調…いや、殆ど怒鳴っていたことを思い出す。

『リョウちゃんから貰った命なのよ!殺すつもりなの!!!』

多分、リツコと出会ってから一番キツかった言葉。

わたしには、相当効いた。

決して声を荒げることはなかったリツコが、ここまで感情露わにするのは、激しい怒りだということだ。それほどまでに、真剣に、わたし達二人を心配してくれていることが、痛いほど伝わってきた。

更に、その後告げられた赤ちゃんが男の子であること。
それは、わたしの心を動かすのに充分だった。

まるで、彼が帰ってくるようなそんな感覚に包まれていく…

その後も、辛辣な言葉を浴びることもあったが、リツコは、わたしの仕事を一手に引き受けて、尽くしてくれた。
彼女がいなかったら、決してこの子と今のような時間は、過ごせていなかっただろう。

あの時から、自分の体を大切にしようと、それまでの生活習慣を改め、自分の体の中でどんどん大きくなる、彼との間に授かった命のことを一番に考えることにした。
集落には病院のような施設はまだなく、出産前から今まで過ごしたのは、村の端にひっそりと置かれた電車車両を利用した仮宿で、ベッドとトイレと洗い場のみの簡素な設備だった。しかし、艦長室より広く、またひとりで使用していたせいもあり、プライバシーは守られ、快適に過ごすことが出来た。

出産前は彼との子のことを、最低限の人間以外、誰にも気付かれないようにする為に、偽名を使用した。特に、集落の住民票リストにあった、シンジくんの友だちとは接触を避けた。が、その名前を見た時は、多くの人が消えた世界で、無事でいてくれて良かったと心から思った。
このまま生き延びてくれれば、いつか、シンちゃんを初号機から救い出して、再会させてあげることも出来るかもしれない。

ニアサードインパクト、あの日一瞬にして世界は人類の存在を否定した。

しかし、まだ現状を理解出来ず混乱する人々が多くいた。当たり前だ、日々の生活の全てが消えてしまったのだから。
家族や親しい人を亡くした人の方が多く、今は共同生活を余儀なくされ、物資も少なく、この先の不安感や焦燥感からか、トラブルが起こることもあるという。

皆、生き残る為に必死なのだ。

そのような報告をに耳にすると、自分にはしなくてはいけないことが多くあるのだと思う。

WILLEとは別に支援組織が必要であることは分かっていた。
彼もWILLEの前身である海洋生態系保存研究機構のメンバーも、その為の準備は進めていたが、あまりにも事態が悪化し、そこまで手が回せずにいた。

でも、現実は待ってくれない。
この集落に来て、偶然、住人同士言い争う様子を目の当たりにした時、この案件も急務だと痛感した。

ただ、WILLEはNERVを潰すという究極の目的がある。民間人を守ることが出来ても、生活面をフォローすることは難しかった。なんとか、然るべき人物をピックアップし、人類が生き残る為の支援を開始しなければ、自滅してしまうだろう。AAA Wunderに戻ったら、すぐに構築しなくてはならないと思う。

と、そこまで考えて苦笑いする。
すっかり、仕事のことに頭をシフトしているのだ。
我が子を抱きながら…

外へ出たわたしの目の前には、黒い柱が見えた。

不気味な文様を浮かべ、くるくると回るそれは、相補性L結界浄化無効阻止装置、通称アンチLシステム。
この集落の周りにもぐるっと、何本も置かれている。

世界がコア化していく中、WILLEが設置したこのアンチLシステムが、稼働している場所が点在していた。
運良く辿り着いたり、助けられ連れて来られたりした、生き残った人々の未来に、僅かな希望を見出すものでもある。

そしてこれは、彼と彼の仲間が命をかけて遺したものだ。
これが間に合わなければ、とっくに人類は滅びていただろう。

でも…

いつも思う。
思ってしまう。

やっぱり加持と残りたかった、この子も一緒に。

我が子を道連れにしてまで、加持くんと一緒にいたいなんて…こんなことを思うわたしは、母親失格ね。

でも、わたしは加持くんと離れるのが耐えられなかった。それまでだって愛してるって、大好きって、ちゃんと伝えられなかったクセに、一緒に残るって言葉はちゃんと言えた。

凄く真剣な眼差しで、でも優しさしかない声で、彼は拒絶した。有無を言わせない加持くんの態度に、わたしは圧倒された。死地へ行くことを決意した彼は、そんな様子を見せない程に穏やかではあったが、わたしがあの場に残ることだけは、決して許さなかったのだ。

そしてAAA Wunderでこの場を去るように、結局は説得されてしまった。
わたしに加持くんがサードインパクトを止めに行くようにと、命令までさせて。

お腹いっぱいにお乳を飲んで、すやすやと眠る、わたしの腕の中の小さな命を見つめる。
生まれたばかりだというのに、彼の面影を称えている我が子を見ると、愛しさと切なさで胸が苦しくなる。

ごめんね、育ててあげられなくて…

わたしは酷い女だ…
愛する男を生き残る為の、捨て駒にした。

そして今度は…
生まれたばかりの我が子を、捨てるのだ。

彼に「人類補完計画」の概要を知らされた時、わたしは驚愕と共に、それまでの生きる目的がリセットされたと思った。否、リセットしなくてはいけないと思った。

知らなかったとはいえ、NERVに籍を置いていたこと

それまで子ども達を多くの使徒戦に参加させてしまったこと

あの日、シンジくんを行かせてしまったこと

…多くの命が奪われたこと

自分の残りの人生は、その償いの為に生きると決めていた。
彼の所に行くのは、もう少し先になりそうだけれど、その日が来るまでわたしは戦うと決めた。

NERVの人類補完計画を潰す為に
父の後始末をする為に

…何より、貴方の願いを叶える為に

我儘な貴方は、種の保存だけじゃなくって、人類の未来までわたしに託していった。
それがどんなに大変なことか、分かってながら。

この子が出来たからなの?
急に、自分の究極の目的を放り出して、行ってしまったのは…

答えは分からない。
ただ、あのスカーフを渡された時、わたしは彼の想いを心ならずも、受け取ってしまったのだ。

想いを馳せながらや歩いていると、辺りはすっかり暗くなっていた。

明日で去るこの集落への名残なのか、いつもの散歩コースより少し歩いてみようと、足を伸ばす。
すると、昼間清らかな水を湛える小さな川の方で、沢山の細い繊細な糸のような軌跡を放ち漂っている光が、消えては光り、浮かんでは消え…静かに幻想的な空間を作っていた。

無数の蛍だった。

気候変動があると、蛍は急に沢山の姿を見せるという。
今までどこに隠れていたのかというくらいに、沢山の光跡が、夜空を、川面を照らしている。

そういえば幼い頃、父と見た蛍は、キラキラ輝いていて、美しかった。

自分の手の中に収めて見てみたい、子どもなら一度はそう思うような思いから、夢中で追いかけてしまい、父に静かに見るように窘められたことを思い出す。
父と母と手を繋いで見た蛍は、叱られた後でも、やはり綺麗だった。

あれは遠い夏の日。
まだ、家族三人仲良く暮らしていた日々の中の、大切な想い出だ。

家族三人で…わたし達にそんな日は来なかった。
彼は自分勝手に先に行ってしまった。

なのに。
今、彼を感じる…この子の中に。

ね、加持くん、貴方もここにいるの…?

目を瞑ると、彼がわたしの側で寄り添ってくれているような気がした。
幼い時に感じた、小さなしあわせ。この子はそんなあたたかさを、感じさせてくれるのね。

束の間の、その幸福感が心を満たすと共に、刹那さの風も心の中を過ぎっていく。

目を開くと、変わらずの光の世界。

蛍は最期の二週間、美しく輝き、その一生を終えるという。

「音もせで…思ひに燃ゆる蛍こそ、鳴く虫よりもあわれなりけれ…」

ふと、その儚さを自分の恋に例え、心に残っていた和歌を口にしてみる。

最期に、内なる想いを告げることもせず、ただ自分の身を焼き尽くすことで光り続け、静かにその生涯を閉じる蛍…

「あなた達も、愛するひとに出会えたの?」

ふっと自分の人生で唯一の恋を、蛍の光に見る。

三十年近い人生の中、彼と一緒にいたのは二年と少し。
それは、ほんの僅かの時間だったのかもしれない。

初めは、薄く色づいた桜のように淡い想いから始まった、自分と彼の恋。
でも最後は、お互いの全てをかけてぶつかり合い、ひどく愛した。

その証のような我が子を見る。
丁度小さな口を開けて、あくびをしている所だった。
なんと愛おしい姿なのか。

…あなたに出会えるとは、思わなかったのよ。

彼に会わせてあげたかった。
ほんのひとときでも、触れ合うことが出来たら良かったのに…
それは叶えてあげられなかった、ごめんね。

そして、この先…あなたの父親も、母親も、あなたに、何もしてあげれないことを許して。

あなたが生きる世界を守るから。
あなたの父親が、最期にそう望んだように。
あなたの母親が、そう望んでいるように。

そして、あなたに、わたしの愛した人の名前を受け継いで欲しい。わたしはあなたの未来を守るために、全力を尽くすわ…

きっと戻ってくることは出来ない。

でも、大丈夫。
わたしは、あなたのお父さんの所に行くだけよ。
離れていても、ずっと愛している。

リョウジ、どうかしあわせな人生であることを。

どれくらいここにいたのだろう。
いつしかわたし達は、夥しい蛍の光に溶け込んでいた。

明日になれば、わたしは自分の戻るべき場所へ旅立つ。

加持くん、貴方の想いはわたしがちゃんと引き継いで行くわ…
だからずっとこの子を見守っていてね。

気がつけば、腕の中の小さな命は、目をぱちと開けて、わたしの方を見ていた。人差し指で、小さな手に触れると、ぎゅっと握り返してくる。
生まれてから何度もしたこのやりとりも、もうすぐ出来なくなる。そう思うと、涙が溢れた。

わたしの様に、声を出して鳴くことを知らない蛍。
しかし、その身を精一杯焦がし、わたし達を優しく照らしている。

まるで、この子…リョウジとの永遠の別れを惜しむように。

Fin.

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