青い鳥
葛城…ダメだ
君が消えるなんて
俺より先に逝くなんてダメだ
待っていてくれ…
俺が辿り着くまでに…
監査部からの報告は、犠牲者が多数出ているとのことだった。
加持は松代へ車を飛ばす。
決してその横に立つことは出来なくても、何故今日に限って、せめて一緒に松代入りし、側にいることが出来なかったのか、今更どうしようもないことを悔いた。
参号機の起動実験当日、彼は本部にいた。
その実験が終わる頃、ミサトを迎えに行こうとのんびり構えていた加持。
彼女の四日間の出張中、子ども達の面倒を引き受け…と言っても、家事全般を引き受けているシンジがいるので、彼がすることは殆どなかった。名目上の保護者の役割をしっかり果たしながらも、
本部が手薄になっていることをいいことに、進捗を聞きながら、彼は『自分の仕事』していた。
迂闊だった…参号機が本部に回されてきた時点で、気づくべきだった。
あれはSEELEの強い要請で本部に押し付けられた機体だった。そして、碇司令さえ最初は固辞した案件だ。憂慮すべき問題があるのではないか、と自分の第六感が囁いていたというのに。
そう、何があってもおかしくない状態だと思いながら、俺は自分の諜報活動を優先して、その確認を怠った。
松代から動き出した参号機は、もう野辺山まで移動しているという、恐らく向かっているのは、NERV本部。既に碇司令が本部で指揮をとっていた。
起動実験が行われた現場近くは、参号機が移動した後なのか、巻き込まれた民家や電信柱がぐちゃぐちゃに潰れている。その先に越えていった山間部にある高圧電線が何本も無残に折れ、暴走の激しさを物語っているようだった。
現場までの道路は何度も迂回を余儀なくされ、加持をイラつかせた。なんとか後5kmまで近づいた地点で、全てルートは封鎖されていた。NERV関係者だというパスを見せ、規制線を越えて最後は車を乗り捨てると、爆心地の近くまで走る。
途中で参号機は初号機に処理されたと情報が入る。
詳細は分からないが、出撃したシンジやアスカ、レイに参号機に乗っている、鈴原トウジの安否も気になる。しかし、加持にとって、今はミサトの安否が最優先事項だった。
夢中で走った。
とにかく彼女に近づきたかった。
1秒でも早く…
1mmでも近く…
気がつけば、赤色灯が眩しいくらいに目前に迫る。
想像以上に凄惨な状況が目に入ってきた。その視線の先には、救急隊員と、医師、看護師が忙しく動いていた。次々と運ばれる事故に巻き込まれた職員達。その状態を確認し、トリアージしされ、ストレッチャーに乗せられていく。黒いタグを貼られた者も少なくなかった。想像以上に緊迫した風景を目にし、作戦部長の安否が確認出来ていないという報告が、彼を焦らせる。
その光景の隅で、よく見慣れた金髪の髪の彼女の姿を確認する。
その横で黒い袋に包まれた、犠牲者の遺体が運ばれていた。
リツコは応急処置のみの姿で、松葉杖を持ちながらも、気丈にもヒールのままでしっかりと立ち、一人ひとりその中を確認していた。
「リっちゃん…無理するな」
加持は、自分でも驚く程に感情を乗せられない声で、彼女の肩に手を置く。
「…まだ見つかってないの」
振り返ったリツコは、加持の目を真っ直ぐ見つめる。
「発令所にいた他のメンバーは、怪我をしてはいるけれど、無事なのに」
「同じ場所にいたのに、ミサトだけ吹き飛ばされたみたいで…」
いつも以上に感情を殺した声。
だからこそ、厳しい事態だということが、加持にはひしひしと伝わってくる。
車を飛ばしていた時よりも、更に胸がザワつき、体の奥底から湧き上がる焦燥感と、何よりも彼女の温もりがもう得られないのではという、恐怖で体が震える。
「リっちゃんも…病院へ行ってくれ」
「いえ、わたしは大丈夫よ」
どこまでも冷静に口を開くリツコの頭部に巻かれた包帯に、血の痕。
その赤さが更に加持を追い詰めていく。
ダメだ
ダメだ
ダメだ
葛城、君は何処にいる。
ただただ一緒にいられたあの二年間の幸福だった日々は、大切な時間として胸に置きながらも、別れを告げられてからは、ずっと彼女を追いかけていた気がする。
自分が幸せになるためには、ミサトが必要なのは分かっていた。しかし、幸せを求める生き方が出来なかった。
彼女は自分にとってまるで青い鳥のようだった。
幸せになれると分かっていながら、捕まえることの出来ない、実は身近にいることも分かっているのに…
なりふり構わず捕まえて、籠の中に閉じ込めてしまえば良かったのか。
再会してからの、君との思い出が走馬灯のように駆け巡る。
感情豊かな君の表情…交わした口づけは自分の衝動が始まりではあったが、何度も重ねるうちに甘さを増すようになっていた。
最も忘れられないのは、ターミナルドグマでの、激しい怒りを向けながら、悲しみを浮かべた彼女の顔。しかし、直後、口づけを求めたのはミサトの方だった。
彼女の全てが愛おしかった。
激しい口づけの、その唇の柔らかさや絡めあった舌の感触まで、まだ明瞭に覚えているというのに。
失われるのかもしれない…
もう失われたのかもしれない…
耐え難い苦しみが目の前に迫っているのではないか…
いや、そんなことは今は考えるな、加持リョウジ
葛城…
無事で…いてくれ
それだけでいい…
自分でも驚く程にコントロール出来ない感情を、抑え切れていたとは思わない。
ただ今にも倒れそうな…それでもどうしても、残るというリツコを説き伏せ、救急隊に引き渡す。
葛城は絶対大丈夫だから、後は俺に任せてくれ、と運ばれる前に告げて。
絶対大丈夫…
何の保証もない言葉
まるで自分に言い聞かせるような
彼女はストレッチャーは拒んだが、車椅子にやっと座ってくれた。
そして、加持の言葉に、悲しそうに笑い、頷き、眼を閉じて闇へ消えて行った。
その姿を見送ると、加持の足は爆心地に近い方へ向かう。
負傷した職員には何とか励ましの声をかけ、命を落とした職員とすれ違う度に、背筋が凍る想いがした。
殆どの職員が生死問わず発見されていく中、ミサトは中々見つからなかった。
あの日、彼女から銃を向けられた日、地下に眠るアダムを彼女に意図的に見せる決心をした加持は決めていた。
どこまで行けるかそれは分からない。
しかし、ミサトと生きていこうと。
それまではぐらかしていた、彼が向き合う真実を、共有したかった。それが彼女にとって残酷な現実であろうとも。
あの、ターミナルドグマで交わした口づけは、彼女自身が求めたものではあったが、彼女は知らなかった。一緒に生きていくと、加持が心から愛する彼女への誓いでもあったことを。
まだ、何も伝えていなかった。
あれから、ミサトとの距離が縮まり、二人で過ごす時間が増えた。昔と変わらず、加持の言葉に一喜一憂し、表情をコロコロ変える彼女。ランチを共にしたり、シフトが合えば一緒に退勤したりと、多少の大人な会話はあったにしても、口づけを交わすだけで胸が高鳴るような、まるで十代の淡い恋のような関係だった。しかし、頑なまでに彼を拒絶し続けていた彼女が、少しずつ彼に歩み寄り、心を開いてくれることに、彼は至福の喜びを感じていた。
その矢先の事故。
まだ何も始まっていない。
帰国してから、何度君の全てを奪ってしまいたいと思ったか。
あの日から君をどんなことをしても、手に入れると決めていたというのに。
加持は、手のひらをじっと見つめる。
人生の中の二年と少し。
彼にとっては何にも変え難い大切な時間が、その中から零れ落ちていくように思えた。
が、その時、彼を呼ぶ声が聞こえた。
「加持一尉!」
「加持一尉!見つかりました」
天を仰ぎ、開かれていた手のひらをぎゅっと握る。
遠くへ飛び立ったと思われた彼女は、彼の元へ再び戻って来た。
ミサトは発令所の瓦礫の真下にいたという。
周りにいた職員は全て救助されていたが、瓦礫に全身を覆われていたミサトは救助が遅れた。下敷きになっていたが、幸い空間が出来ていた場所があり、一部の圧迫に留まったため、最悪な状態は免れた…が、血塗れの頭部裂傷は深く、衝撃による打撲もあった影響で、全く動かない。「葛城三佐ですか?」の声にやっと反応したという。
『応急処置は終わりました』
『頭部裂傷、全身打撲、骨折は左手だけですが、重傷です』
『三時間以上瓦礫の下敷きになっていたと思われるので、挫滅症候群を起こしている可能性があります、血液浄化する必要があるかもしれない為、すぐに搬送します』
無線から聞こえる、救急隊員の説明が随分と遠くの位置で聞こえるような気がした。
…生きていた
目に薄っすらと熱いものがこみ上げてくる。
それまで緊張していた彼の全ての力が、重力に従って抜けていくような気がした、が、まだ彼女の姿を見ていない。
加持は、再び立ち上がり、ミサトが担架で運ばれてくるのを発見すると、駆け寄った。
額と左腕に白い包帯が巻かれている。
その痛々しい姿に、眉を寄せる。
しかし、ストレッチャーに移されたミサトに寄り添うと、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「…加持」
「葛城、よかったな」
「リツコは…?」
「心配ない…君よりは軽傷だ」
ミサトの表情がやっと和らぐ。
「そう…参号機は?」
「使徒、として処理されたそうだ…初号機に」
一つひとつの質問に淡々と答えていたが、シンジのことでミサトはまた顔を曇らせる。
「わたし…わたし、シンジくんに何も話してない」
その後、ミサトはシンジとの通話で、ひたすら謝っていた。そんな中、シンジとの会話は彼の方から遮断される。ミサトの耳に残されたままのワイヤレスイヤホンから、恐らく、全てを察したであろう、シンジの叫び声が聞こえてきた。その悲痛な声は、イヤホン越しにも漏れ聞こえてきたのだ。加持は眼を細める。
ミサトは加持に縋り付こうと手を伸ばす。
「…加持…お…ねが…い」
「シンジく…の…所に…連れ…て行って…」
そう声を絞り出したミサトは、起き上がろうと動いたせいか、額の包帯から血が滲み、あっという間に真っ赤に染まる。
「葛城、分かってる、分かってるから」
「今は安静にしてくれ…頼む」
加持は彼女を抱きとめ、止血処理をしながら、そう言うのが精一杯だった。
「ダメ…今…行かな…きゃ…」
そこまで言うと、ミサトは気を失った。
出血が止まらない。
自分の力ではどうすることも出来ない彼女を赤く染めていく血に、加持は、今までの人生で出したことのない程の声で、助けを求めた。
すぐに医師が駆けつけ処置される。新しい包帯に交換されたミサトと共に、加持は救急車に一緒に乗り込み、病院へ向かった。
既に、大勢の重軽傷者が運び込まれ、中はパニック寸前ではあったが、医療関係者の冷静な対応で、秩序がなんとか保たれているようだった。
赤いタグがつけられていたミサトは、すぐ集中治療のブースに入る事が出来た。
救急車から彼女降ろされようとした時、加持は救急隊員に手を離すよう、声をかけられる。
再び出血した頭部の応急処置を受けた後、車内で気を失ったままの彼女の手を、ずっと握っていたのだった。
普段穏やかな表情を崩さない加持が、ひとめ憚らず彼女に寄り添い、蒼く苦悶な表情を浮かべているその姿は、彼の心全てを曝け出しているようだった。
『面会謝絶』と書かれた個室の病室にミサトはいた。
瓦礫の下の長時間圧迫されていた、腕や臀部が血流不足の為、高カリウム血症起こしかけていた。内臓に大きなダメージを広げる前に、血液浄化の為の血液透析が行われ、急変に備え、心臓にもモニターがつけられていた。負傷した頭部や左腕の怪我よりも、深刻な状態だった。
その病室に、加持は毎日短い時間だが、付き添いとしてミサトに寄り添った。
男性であり、同僚とはいえ、今までの経歴はともかく、他人である加持が、本来なら私情が大きく偏ったこの申し出は許諾されるはずもなかった。
ただ、彼女には、身内がいない…だからこそ降りた許可。
また、リツコの根回しもあったことを、二人は知らない。
加持は彼女を見守ることが出来ることを感謝し
ミサトは彼に見守られることを感謝した。
病室の監視カメラは稼働していたが、二人きりになれるその時間は、何よりもミサトを静かに癒す時間だった。
入院して三日目。
窓から差し込む光が、顔色の冴えないミサトの顔を、色を忘れたかのように、白く照らしている。
ベッドを上半身のみリクライニングにしたミサトは、加持が病室に入ってくるのを待っていた。
待ち人が来るなり、彼女は口を開く。
「…わたしはシンジくんを失ったのね」
トウジの命は救われたが、脚を失った。
何より、シンジが自分の意思ではないとはいえ、初号機でトウジに手をかけたことは、彼の中で耐え難い事実なはずだ。
「わたしがきちんと伝えていれば…」
「シンちゃんは初号機に乗らなかったかもしれない…」
「きっと、もうシンちゃんはわたしの所に帰ってこないわね」
彼女の瞳は涙で潤んでいた。
「短い期間でも、家族だったのよ」
「子どものお遊びみたいな、そんな日々でも」
「そんなあたたかさをシンちゃんはわたしにくれたの」
「加持くんみたいに…」
ふいに言われて、加持は薄く笑う。
シンジと同列に扱われて、嬉しいのか悲しいのか…ただ、彼女も自分の人生で唯一のしあわせだった日々が、大切な時間だと思ってくれていることは分かった。
「仕事復帰まで三週間は安静にって言われてるの」
「でもそんなに休めない」
弱々しくベッドに体を預けていたミサトの顔は、仕事の顔に戻っていった。
「葛城なら、そう言うと思った」
「しばらくは俺が送迎するよ」
初めから、そう決めていた。彼女の傷が癒えるまでは、何を言われても側にいると。
「…ありがと」
ずっと自分の手に添えられていた加持の大きな手を、ミサトは力なく握る。
その手を握り返してしまったら、壊れてしまいそうだ。しかし、その弱々しくも、生きていると伝わる温もりに、彼は感謝した。
「…そろそろ行かないと」
「欲しいものとか、あるか?」
「そうね…お酒は怒られるし」
ミサトは力無く笑う。
「…新しい着替え…かな」
「わかった…ビールと着替えな」
加持は優しく微笑み返す。
「それと」
彼女は切なげな視線を彼に投げかける。
「ん?」
「…少しだけ…いい?」
彼女は躊躇いがちに、握っていた加持の手を自分の胸に持っていく。
その意図を理解した加持は、ミサトを抱き締めることは出来なかったが、点滴の管を器用に避け、強く触れるとガラス細工のようにバラバラに崩れてしまいそうな彼女に、自分から体を寄せた。彼女の体をそっと支え、腕の中で包み込み、その生気の薄い顔を見つめる。普段とは全く違う、その儚げで悲し気な表情に、胸が痛む。
しっかり抱きとめていないと、このまま、目の前から消えてしまいそうな気がした。
その不安から、そっと彼女の胸に顔を近づけると、ドクンドクンと鼓動が聞こえる。
「生きてる」
「うん」
「もう、こんな思いさせないでくれ…」
「…うん」
ミサトの手が、ゆっくり加持の背に回された。
加持も堪らず、そっと引き寄せ抱き締める。
その姿は紛れもなく、強く惹かれ合う、恋人同士で。
お互いの鼓動を確認しあい、お互いの体温を感じる。
ふたりにとって、何が幸せなのか分からない。
しかし、加持が追いかけていた青い鳥は、自ら彼の元にいることを望んだ。
ただ、待ち受ける修羅の道を予感し、ただ寄り添うことを選んだのだった。
例え、既に籠の中に囚われているのだとしても。
fin.
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?