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分岐点

2013.8.9 fri.

「少し見せてもらったけれど、ここも結構大変そうね」

リツコはカクテルグラスの淵に付いた塩を指でなぞって、上目遣いで加持を見る。
その仕草に、加持はまだ自分と同じ20代前半だというのに、彼女の中に成熟しきった女性の姿を見たような、そんな気がした。

お互いこの組織に入って二年目になる 。
リツコが本部から、自分のいる北米支部に視察に来ることを聞きつけて、加持は飲みに誘った。

彼女は短めのタイトスカートに、ノースリーブのカットソー、その上にシースルーのブラウスを羽織っている。

元々学生時代から、実際の年齢より大人びて見えるリツコだったが、匂い立つような女性独特の色気を感じたのは、加持も初めてだった。

*****

(きっと本当なんだろうな、あの話は)

リツコに関するある情報を加持は持っていた。
それは俄かに信じられないような話で、今回、彼女に会ったのは、それを確かめる為でもあった。

そして、目の前のリツコの変化に確信する。

ふと、ミサトもこうやって大人の女性に変化しているのだろうかと、頭にそんな思いが過ぎった自分に苦笑した。

付き合っていた頃は男性経験がなかったミサトを、全て思い通りとはいかなかったが、独占し、文字通り自分の色に染めていくのが嬉しかった。

別れてもう随分時間が経ったのだから、自分の知らない彼女に変わっているかもしれない。

と、そこまで考えが巡ると加持は衝動的に、赤い色のリキュールで、薄っすら色づけされたテキーラを一気に飲み干した。
リツコはそんな加持の空けた、空になったショットグラスを、人差し指で軽く小突いた。

「今日は強いお酒ばかりね」

「そうかな」
「ちょっと酔いたい気分なのかな」

目の前の友人と、昔の恋人。

大学生時代とは違って、自分が全く知らない顔になっていく。
それはそれぞれの人生を歩き出したのだから、当たり前のことだったし、自分も間違いなく、新しい世界に足を踏み出していたが、やはり数少ない心許せる友人との距離が開いていることに、心の奥が痛んだ。

「あら、珍しい」

「酒に飲まれていたのはミサトだけね」

リツコは手にしている鮮やかなカクテルグラスと、加持の顔を交互にを見つめた。
しかし加持は返事をしないで、バーテンダーに二杯目のテキーラを合図した。

「リョウちゃん、相変わらずお酒強いわね」

リツコの言う通り、強い酒を顔色変えずに加持は同じペースで飲んでいた。
とはいえ彼女自身も、相当強いカクテルをオーダーしていたのだが。

「いやいや、リっちゃんはいつも自分の限界の手前を分かっていて凄いなぁと思ったよ」

「あら、リョウちゃんだって、行儀良く飲んでたわ、私が知っている限りでは」

「行儀良く、ね」

正直な話、学生時代はその場の雰囲気次第では文字通り
『ぐてんぐてん』になるまで飲んだり騒いだりすることも好きだった。
ミサトとバカみたいに飲んだくれて、アパートに転がっていた…そんなことも、初中終あった。

しかしリツコの前では違う。

何故かリツコには、品良くしなくてはならないというプレッシャーを感じ、彼女の前で悪酔いなど、する気にはならなかった。

もちろん、今も。

だからその辺のバーではなくて、洒落たラウンジを選んだし、今日はネクタイも一応緩めず上まで結ばれている。

「結局、戦自には残らないそうよ」

「将来的には、こっちに戻ることになりそうだって」

リツコは視線を加持に置いたまま煙草に日を点けた。

「何のことだい」

「ミサトのことよ」

「今葛城の名前が出て来る理由がわからないな」

「あら」
「すっかりミサトの近況を聞きたいから、誘われたと思ってたわ」

「君だって、なんで俺達が別れたか知っているんだろ」

「ああ、貴方の浮気って話?」
「そんなの信じている訳ないでしょ」

「赤木」

加持はリツコの話を遮った。
その声は、それまでのものとは少し違い低い。

「あの頃、俺は結構楽しかったんだ」

「それだけでいいんだよ、充分なんだ」

「そう」
「ごめんなさい、余計なこと言い過ぎたわね」

「…いや」

ミサトの話を一切拒絶する加持の反応が、あまりにも予想と反していたことに、顔にはもちろん出さなかったが、リツコはおそらくその日、初めてその表向きクールな感情を崩した。

そして、加持の横顔に僅かだったが、寂寥の色を見た気がした。


「君はどうなんだい」
「流石の俺でもクラクラしそうな位だ」

「ま、随分自分に自信があるのね」

「リっちゃん程じゃないよ」

そして、加持は一瞬迷ったが例のことに関して口を開く。

「君に男が出来るなんて、思わなかったよ」

リツコの動きが一瞬止まった。

が、すぐに唇を動かして薄い笑いを作ると、『ああそういうこと』とつぶやき、視線を合わせないものの、瞳だけ加持の方へ動かす。
流した目つき、その下の泣きぼくろは艶っぽさをより演出した。

しかしその視線は、突き刺さるかと思う程に冷たい。

「それは寝る相手のことかしら」

感情のない声。

だからこそ加持は、その事実の裏に底知れない人間の業を感じる。

「はっきり言うんだな」

「貴方に隠し事しても無駄だもの」

「俺だって分からないことはあるよ」

リツコの相変わらずの冷静さには、加持も脱帽する。

だからこそ、あの男も男女の関係を結んだのか、とも思う。
だが、その現実が加持には痛々しいものに見えた。

先に帰ると告げた彼女は、最後に言った。

「リョウちゃん、私は大丈夫よ」


そんなリツコを、複雑な気持ちで加持は見送った。

(…葛城なのかもな)

リツコの静かな暴走も、自分の先が見えず後戻りの出来ない立場も、成るべくしてなったものなのだろうが、ミサトの存在が、ブレーキをかけていたのかもしれない。

事実、自分はするべきことも忘れて、彼女との恋に溺れた。

(…おそらく、今ここにいてこの事実を知ったら)

(きっとアイツは、赤木に必死でやめさせるように説得するだろうな。)

あの無頓着な位のおおらかさと、適当さと、 大胆さ。
それでいてちょっとしたことで、危うく壊れてしまいそうな繊細さは、自分もリツコも放っておけなかったし、自分達を心から思ってくれる、数少ない存在でもあったのだ。

(…自分で思い出させるな、って言っておいてこれか)

ふとミサトのことが浮かんだ、自分のそんな思惟に未練を感じた。
自然とほろ苦い想いと共に、笑みが浮かぶ。

(忘れたいわけではない)

(ただ、想い出にするには、まだあの時間が鮮やか過ぎる)

加持とは銘柄が違う、リツコのタバコの匂いが消えた頃、彼は思い出した。
彼女に猫のプレゼントを渡すのを、忘れていたのだ。
折角用意したのに仕事部屋に置き忘れて、そのままで。

リツコは確か明日、帰国予定だったはずだ。

(専用機が出る前に渡さなきゃな)

加持は、明日のタイムスケジュールを頭の中で整理した後、追加のテキーラをオーダーした。

タバコの火をつけ、その煙が流れる方向を目で追いながら、今晩はもう少し酔わないと駄目だと思う。

そうでもしなければ、明日リツコを見送れない
だから酔わなくては、と。

Fin.

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