見出し画像

祖父の日露戦争陣中日記:(8)沙河の会戦へ

いよいよ戦史上にその名を残す沙河の会戦に突入します。これまで日本軍の進撃に防戦一方で最後は退却を繰り返してきたロシア軍ですが、ここに来て本格的な反撃に転じます。そのため第1軍は一時的ではありますが本渓湖北方あたりまで退却を余儀なくされます。前回の続きです。

明治37年9月19日から10月17日までの第24連隊の動き

10月6日:午前中は宿営地の大掃除をした。午後2時頃警急集合の命令が下りた。直ちに服装を整え官山嶺付近まで出動したが、敵はそれ以上前進する動きはないとの情報に接したので、これより宿営地に引き揚げた。以下の注意事項があった。第6もしくは第7中隊の園田甚三郎という者が自殺をしたという。その原因は調査中であるが、以前よりも一層貴重な生命であることを各位考えおかれたい。第8中隊では、毛布を現地人に背負わせ前哨戦へ運搬の途中、方向を誤り敵中に迷い込んでしまった。その結果射撃を受け、毛布は奪われ這々の体で退却してきた。従って現地人を使役する場合には十分注意されたい。

10月7日:午前6時30分整列を終え、宿営地の北方高地に集合した。官山嶺付近まで前進したところで宿営地に引き揚げの命令が出された。宿営地に戻ると、身の回りの品々を背嚢に収納して出発の準備をし、第2小隊は東方高地の小哨交代をするよう伝えられた。午後2時30分頃より西北方面からしきりに砲声が聞こえた。前面には敵の騎兵4、50騎が見えた。日暮れて以下の報告及び命令がなされた。前面に敵約10万が我々に向かって前進して来る模様である。当12師団はこの敵を迎撃する目的をもって本夜12時より行動を開始するので、小隊は日没を待って哨所を撤収し連隊集合所に来られたし。混成旅団は本夜本渓湖まで退却する予定である。上記により、日没後哨所を引き揚げ平台子北端の連隊集合所に戻った。そこで中隊に合流し、約10 km西方に後退して霜降村(祖父の勝手なネーミングのようです)に到着した。青天井の広野にて夜を徹したが、当夜の寒気は髪が氷結するほどであった。その寒さ推して知るべし。

10月8日:午前6時40分頃霜降村を発ち、北方へ山を超えて畑地に到着し、ここで約4時間の睡眠をとった。その後さらに西南方向に約10 km行進して日暮村に到着した。この地において連隊が集合した。人家は少なく村落露営をした。日暮村とは宿営地の準備をしていた頃太陽は西に傾いていたのでそのように名付けた。

10月9日:午前11時頃軽装にて集合の命令があり当地を発って、本渓湖の西方約4 kmの畑地に到着した。ここに第12師団は集結していた。午後8時頃花連塞に着きここに露営した。本渓湖及び西方からは激しい砲銃声音が聞こえた。(花連塞と記述されていますが、火連塞なのかも知れません)。

祖父が属する第1軍第12師団第24連隊第1大隊第2中隊の10月9日から12日における配置

10月10日:前日と同じ位置に在る。午前9時ごろより砲銃戦が始まった。

10月11日:午後6時ごろ西方2,000 mの村落へ師団司令部の護衛に当たった。敵の砲弾はしきりに露営地付近まで飛来して破裂した。終夜砲銃声音が止むことはなかった。

10月12日:午前7時頃警急集合して北方約2,000 mの高地まで駆け付けると、1名の(上等兵)伝令が飛んで来て、「前面は回復した。従って中隊は現在の鞍部に集合して次の命令を待つべし」と言う。しかし、このとき前面はもはや回復後の状況に変わったらしく、前方からは幾人となく死傷者を運搬して来る。そこで前面は如何なる情況なのか問うと以下のような返答があった。「当地には近衛予備隊が守備をしていたが、夜明け頃ロシア兵が夜襲を仕掛け赤帽隊は退却するような戦況に陥ってしまった。それで第3中隊が援軍として加わってロシア兵を撃退したため、中隊においては中隊長以下20名の即死と負傷者24名の犠牲が出た。」この内、伊福氏も負傷と聞いたのでその軽重を問うと、重傷の方だが生命には別状なしとの答で一安心をした。それから、我が第2中隊は前斜面に副防御を作るための材料を運搬した。その時、敵の砲弾が飛来して伊藤八十吉の左耳にあたったので、直ちに応急処置を施して仮病院に収容させた。日没後戦場に戻ると、前斜面には敵兵の死屍数百体が転がり、我々の斜面は第3中隊と赤帽隊の死屍で覆い尽くされていた。その惨憺たる有様はとても筆舌に尽くせるものではなかった。我々は全斜面に副防御を造り、第3中隊と交代して赤帽隊とともに壕内で警戒しながら夜を徹した。当夜銃声が止むことはなかった。第3中隊においては、後方高地に戦死者を埋葬してそれぞれ1基の墓標を立ててその忠魂を祀った。

10月13日:中隊は凹部に至った。分隊は壕内での敵情監視のためそこに残った。敵の砲弾はしきりに壕付近で破裂した。その結果、1名が負傷した。日没後は再び壕内において夜を徹した。

10月14日:敵は前夜退却し、前方の敵の陣地はセミのぬけがらであった。午前10時頃我々の騎兵が追撃前進を始めた。よって中隊はその支援として北進を始め、石橋子東南方の約3,000 mの高地(响山子)を占領し、日没ごろには小哨を配備して警戒に当たった。午後11時頃、第3分隊と交代して後方約4 kmの泥濘村で大隊に合流し宿営した。当日午後より雨霜が烈しく、そのために道も悪く歩行さえ困難なほどであった。

10月15日:午前6時40分整列。大隊は7時出発。行軍隊形が編成された。当大隊は前衛として石橋子を経て上平台子より右折して前進した。しかし、紗河上流の右岸は我が軍が占領したため、大隊は紅嶺へ引き揚げ、第2大隊が当地の前哨となった。我が大隊は下平台子北方高地で前哨となった。当夜前哨線に敵の斥候が来たときに銃火を交えた。

10月16日の下平台子付近における祖父の第2中隊の前哨位置
左上:当時の軍用地図上における前哨位置(ピンク帯のあたり)、右:祖父が描いた周辺のスケッチ、
左下:Google Earth上で見る祖父の中隊の前哨位置(赤の場所)

10月16日:前日の位置で警戒に当たった。左翼方面から時々砲銃声音が聞こえた。原嶋少尉は第3中隊付、小田少尉が当中隊付に任じられ、第3中隊は大嶺付近の戦闘において犠牲者を多く出したので、本第2中隊より末次伍長以下19名の第3中隊への編入がなされた。

10月17日:早朝、敵の歩兵約1個大隊及び乗馬隊若干が我々の左翼に向かって前進を試みたが、我が兵によって撃退され、這々の体で退却していった。なおも、左翼軍方面からは激烈な砲銃声が聞こえてきた。夜半より降雨となった。

祖父の日記にも記されていますように満洲の10月中旬は極寒厳冬の始まりで、ここから100日以上に渡っていわゆる「沙河の対峙」が続くことになります。

投稿記事中の写真は、日露戦争PHOTOクロニクル(澪標の会編、分生書院)のものです。また当時の地図は、参謀本部編纂「日露戦史」デジタル地図(文生書院)から切り出し加工して使用しました。





いいなと思ったら応援しよう!