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祖父の日露戦争陣中日記:(9)沙河の対峙

前回は明治37年10月17日までの日記を記述しました。10月の満洲は厳冬の始まりで、ここから明治38年2月下旬頃までの間、沙河を挟んで日露両軍の睨み合いが続きます。この間、組織立った戦闘はなかったものの、小規模な小競り合いは続いていたようです。今回はこの間の日記の中で、興味深い記述を抜粋して書き留めることにします。明治38年元旦の内容がとくにおもしろいです。

Google earth上で見る、明治37年10月中旬から明治38年2月下旬までの祖父の属する第24連隊の沙河南側の滞在地域

10月18日:午前4時ごろ、柳、森、田村の3名を率いて辺牛禄堡子の東南にある小部落およびその東方高地を偵察する任務を帯びて出発した。しかし敵について得ることもなく帰隊した。正午ごろ第3中隊と交代して下平台子へ至り宿営した。

10月19日:午前4時30分ごろ分隊は警急集合して陣地の後方に至って夜を徹したが、敵の前進の様子もなく、朝宿舎に引き揚げた。午後、官山嶺で工事を行った。

10月20日:午前は前日と同じく官山嶺で掩堡をより強固なものに改造した。この日は天気は晴朗で雲一つなく気分爽快な日であった。兵たちが服を脱いでシラミ退治に没頭している姿は発する言葉もない。

10月21日:午前は前日と同じ工事を行った。午後は日没ごろ第3大隊と前哨を交代した。この日の夜の寒さは厳しく終夜山腹を走り回って暖気を取り一睡することもできなかった。

10月26日:中隊は午前7時ごろ前哨地を引き揚げ宿営地へ戻った。本月15日この平台子へ到着以来、砲銃声を耳にしない日はない。

10月27日:日没して第3大隊と前哨を交代した。以前よりは前哨線は少し静かになった。以下の情報があった。第3軍は渓完山の火薬庫を爆発させ、二龍山の塹壕を占領した。梅澤支隊は咋26日の夜半愛頭山(我々の前哨線の西北の方角にある山丘)を攻撃し、本日ここを占領した。

10月28日:前哨勤務をした。当夜、愛頭山方向から激しい小銃の音が聞こえた。

10月29日:前哨勤務をした。情報によれば、昨夜敵は愛頭山に向かって夜襲を仕掛けたが、赤帽後備隊はこれを撃退した。

11月3日:前哨勤務に服した。本日は何たることか、天長節(天皇誕生日)である。中隊は本日前哨本隊であるので、元来ならば午前9時30分整列して凹部で天長の祝賀を表するため東に向かって着剣捧げ銃(チャッケン ササゲツツ)をして天皇陛下万歳を絶叫するべきであるが、目下の敵情及び勤務上の都合により発声することができなかった。代わりに、心中でその意を表明した。

11月5日:日没して第3大隊と前哨の交代を終えて宿舎に戻った。当日朝から天気は穏やかではなく、冷気は一層甚だしく増した。午後になると雪が降り始め、見る間に白銀を塗ったように真っ白の世界へ変容した。積雪に至ったのは本日が最初であった。

11月6日:前日の積雪は消えることもなく、寒気も倍増した。内地の極寒もとても及ばないほどの気候となった。中隊の一部は鹿柴(ロクサイ)材料の運搬に出かけた。

11月16日:前哨勤務。去る6日の降雪の日より、一日毎に寒気はますます激しくなって、小流の河水は凍りついて流水はまったくなくなった。また、井戸水を汲み上げると即座に氷へと変化し、そのような寒気は内地においては聞いたこともない。

以降、年内は、半分は前哨勤務、残りの半分は鹿柴(ロクサイ)材料の運搬、掩堡の補強、薪伐採、本渓湖付近及び平台子付近の戦死者追悼会への出席などをして明治37年末大晦日を迎えます。

沙河を挟んでロシア軍と対峙中の日本軍第24連隊の行動範囲

明治38年1月1日:元日正午ごろより、自分は補充員を迎えに出かけた。朝鮮嶺を越えようとするときに、向こうから来るのが補充員のように見えた。近づいてみると確かにそうであった。背嚢を馬車に載せて滞在地に帰り着くと時間は午後8時ごろになっていた。このとき中隊は前哨を交代してすでに宿舎に戻っていて、新年の祝いとして一人に付き酒2合5酌、他に牛肉と砂糖などを配給されていた。分隊一同はすでに酒宴の準備を整えており、自分の帰舎を待ちわびていた。そこで、分隊一同で互いに明治38年を迎える酒盛りを始めた。その頃にはすでに酒宴を終えた分隊もあり、その最中という分隊もあったが、しばらくして『旅順陥落!』という叫び声が聞こえた。その瞬間、「そこ」も「かしこ」も、『万歳!万歳!』と叫び出した。それからは酒宴をすでに終えていた連中も酒盛りの再開という調子で、誠に記念すべき、めでたい新年を満洲の野において迎えたのであった。

以降、第1大隊は第3大隊と交代しながら基本4日間の前哨勤務を繰り返します。その他は、前年末と同様、官山嶺の掩堡補強、補充員への射撃教練、响山子での薪伐採などを行っていたようです。

1月26日:払暁より降雪。捕虜よりの情報によれば、敵は26、27、28日のどこかで砲撃を行い、その結果次第では前線に向けて攻勢を取ろうとする手筈らしい。この情報により、各兵は舎内で警急集合に対応する準備をした。(結局、このロシア軍の攻撃はなかったようです)

2月4日:午前7時整列して榴弾砲(リュウダンポウ)を運び込むために果木園子へ出発した。ところが榴弾砲はすでに朝鮮嶺付近まで運ばれてきていた。そこでこれを引っぱって持ち帰り、午後5時ごろ帰舎した。この砲は15サンチ砲であって、旅順背面の右翼に設置してあったものと聞き及んだ。また、明日は加農砲(カノン砲のこと)が届く予定である。

移送される28センチ榴弾砲(日露戦争PHOTOクロニクル、澪標の会編、文生書院より)

2月7日:大隊の薪伐採のため响山子へ出かけたところ、薪伐採中に1匹の鹿が飛び出してきた。

2月11日:本日は紀元節で天皇の御即位の日である。征露第1年の記念として記憶すべき賀節の日である。午前、連隊本部東方畑地において紀元節の式典が行われた。

2月13日:陛下よりの恩賜を授かった。栗オコシ、ビスケット、巻きタバコ20本入り1箱。

2月14日:午前11時頃より、連隊本部の裏において軍楽隊の演奏会が行われた。種蒔三番叟、他3題。

2月18日:第3大隊と交代して予備隊となった。この日3等級を給わり辞令を受けた。中隊本部より、いつこの地を出発するかはわからないが、いつ出発しても差し支えないよう、その準備をしておくよう、注意があった。

2月19日:当日金5円郷里へ送付した。(当時の1円は今の2万円ぐらいの価値に相当するらしいです)

2月22日:大隊は前哨を交代した。自分は熱性病に罹り不本意ながら、「一夜の夢を休養室にて結びぬ。」

2月23日:軍医の許可を得て前哨に復帰し、中隊に合流した。以下の情報があった。●第2師団は予定の陣地に集合し終わった。●鴨緑江軍は撫順に向けて行動を開始した。●当第12師団は明日24日までに出発できるよう整頓しておくこと。

2月26日:朝から天気は荒れ模様で次第に降雪となって、冷気も一層増してきた。第1線にいる同胞の辛苦が推して知られる。右翼からは砲声が聞こえた。

2月27日:朝から砲声を聞きながら予備隊の位置にいた。

2月28日:砲声は以前よりますます激しくなってきた。

さあ、いよいよ戦闘再開です。第24連隊はこの後、5月初旬までの約2ヶ月かけて奉天(現在の瀋陽)の北東にある鉄嶺付近まで進軍していきます。

明治38年3月初旬から5月初旬にかけて平台子から奉天の東を経て鉄嶺に至る第24連隊の進軍経路

投稿記事中の写真は、日露戦争PHOTOクロニクル(澪標の会編、分生書院)のものです。また当時の地図は、参謀本部編纂「日露戦史」デジタル地図(文生書院)から切り出し加工して使用しました。

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