祖父の日露戦争陣中日記:(4)ロシア軍を急追へ
いよいよ祖父の第24連隊を含む第1軍はロシア軍を追って北上を始めます。前回の続きです。
6月23日:明日出発することになった。各下士哨は夜12時までに撤収し宿営地に帰るよう命令があった。そのため出発の準備に種々多忙であった。
6月24日:午後3時余屯匂を出発し、午後7時頃宿営地に着いた。暑中の行軍であったため、全員疲労したようであった。行程約 40 km。
6月25日:午前5時50分宿営地を出発し、午後6時石門子付近に到着しここに露営した。当地にロシア兵が宿営した跡があった。行程 28 km。
6月26日:午前2時40分露営地を出発し約 10 km強前進したところで、賽馬集の方向から退却してきたロシア兵に遭遇した。第1中隊は他の大隊とともに軽装で追撃した。夕刻に数百発の銃声が聞こえた。午後4時より前進を再開し、約4 kmのところで中隊は前哨に任ぜられた。除家堡子の西南700 mに位置している。
6月27日:午後2時前哨を交代して舞明村に至り宿営した。
6月28日:情報によれば、賽馬集にいるロシア軍の歩兵4大隊及び騎兵6千を佐々木支隊の前衛のみで攻撃し、約30分で占領したらしい。
6月29日:午前10時宿営地を出発し、西へ約2 kmのところにある范家堡子に至り宿営した。分隊は独立下士哨として宿営地の西南方向の高地において警戒に当たった。当日は朝から降雨で夜になっても止まず、みるみる河も道も区別がつかなくなる程に増水した。下士哨は終夜にわたって頭上からの雨に打たれ、睡眠をとることもできず全身びしょ濡れとなって佇むしかなかった。
6月30日:午後2時下士哨を交代して宿舎に戻り休息をとった。
7月1日:午前8時分隊は小隊長原嶋少尉の地形偵察・略図作成の助手として范家堡子を軽装で出発した。北へ約8 km前進し呉家堡子に着いたころ大雨が降ってきた。仕方なくある家屋に入り雨宿りをした。昼食後、小分水嶺を超え、左折して砂我溝、赫家堡子、謝家堡子を経て宿営地の范家堡子に戻ってきた時はすでに午後11時ごろになっていた。当日は、小分水嶺を超えて砂我溝に至ったときにはすでに日も暮れていた。帰路がわからなくなり、途中清人に道案内を頼んだが言葉もよく通じず、非常に苦労してようやく帰宿した。小分水嶺及び砂我溝にはロシア兵が露営した痕跡があった。雨が降り続き糧食の運搬ができないため、本日より4日間減食することになり、1日の量は、白米3合、栗1合5勺、副食物は1日分を2日間で食することとなった。
7月3日:午前5時40分范家堡子を出発し、午後6時四方砬子(リュウシ)へ到着した。大隊は本日より木越支隊に編入されることになった。行程約30 km。当日は河を渡渉した回数14回、超えた山頂10箇所に及んだ。第2、第3大隊は師団本隊として賽馬集に宿営した。
7月5日:午後4時30分頃警急集合の声が掛かったので、我が中隊は第4中隊の宿営地喜鵲嶺(キジャクレイ)に向かうと、大隊長と木越閣下が巡視中であった。ここでロシア軍の来襲に応戦するため以下の任務を受けた。中隊は険峻な山を攀登(ハント)して姜家堡子付近に出て、ロシア軍の進路に脅威を与えること。第4中隊は正面より徐々に攻撃する模様であった。この時ちょうど峻坂を攀登した我が中隊は姜家堡子の西方高地に達していたので、ロシア軍としては予想外に前と後ろに敵を受けたことになる。彼らはこれを悟ると狼狽して急に前川方向に退却を始めた。そこで中隊は本道を退却するロシア兵に向かって高地より猛烈な射撃を浴びせかけた。すると敵はますます大狼狽し、みるみる馬数頭、兵士7、8名の死傷者を出した様子であった。しかし、山路は険しく日も暮れてしまったため、我々が敵を追って山を駆け下りることはしなかった。結果、敵は屍及び負傷者を運びながら這々の体で前川方向に退却していった。一方、我が中隊は前哨線(大甸子、ダイテンシ)に向かって引揚げた。しかし、雨は降るし暗いしで、どこが道でどこが河かも判明せず、ようやく前哨線にたどり着いて、畑中に叉銃して夜を徹した。夕食をとったのは翌日の午前3時であった。前哨線へ引き上げる途中、河岸の李家堡子で日本兵1名が倒れているのを発見したので、線内へ運んだ。夜明けてみると意外にも第1中隊の平川軍曹であった。
(注釈)"福岡連隊史(1974年)杉江勇著, 秋田書店"に以下の記述があります。「7月5日、李家堡子付近の戦闘で平川軍曹の指揮に属して敵情偵察におもむき、平川軍曹が戦死すると、軍曹の遺体をかついで帰る途中で敵兵と遭遇、発砲する間もなく敵との組討ちで谷間に転落しながら、敵を刺して軍曹の遺体を持ち帰った第1中隊の橋本喜代吉1等卒に、黒木第1軍司令官から感謝状が授けられた。
7月6日:午前6時30分露営地を引き揚げ、前川方向に前進し前川の入口あたりまできた時、敵は小市方向へ退却したとの情報があった。一方、第1中隊より昨日斥候として派遣した兵隊3名が行方不明とのことで、山中を捜索したところ、山腹で2名、河岸の柳の下で1名を発見した。中隊は大甸子へ引き揚げ、前哨に任ぜられた。分隊は下士哨として大甸子より600 m前方の本道上で警戒に当たることになった。
7月9日:中隊は敵情偵察のため午前4時20分張家堡子を出発し、大甸子、荒流、前川、久戝峪を経て午後6時頃朴家堡子に着いたときに、小市方面より銃声が聞こえた。しかし、ロシア兵の存在は認められず、約12 km後進して鵲草堡子で宿営した。張家堡子より朴家堡子までの行程約30 km。
投稿記事中の写真は、日露戦争PHOTOクロニクル(澪標の会編、分生書院)のものです(冒頭の写真は、摩天嶺付近に侵攻した歩兵30連隊の突撃)。また当時の地図は、参謀本部編纂「日露戦史」デジタル地図(文生書院)から切り出し加工して使用しました。