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祖父の日露戦争陣中日記:(1)鴨緑江前岸までの行軍

私の祖父は明治13年(1880年)6月16日生まれ。23〜25歳のときに日露戦争(明治37年(1904年 )〜38年(1905年))に参加しています。そのときの陣中日記が残されているので、コロナ禍によるおうち時間を利用して、これを解読してみることにしました。明治時代の文章は、旧字体の漢字を用いたカタカナ交じりの漢文訓読体で書かれています。現代の我々には理解し難い箇所もあるのですが、できるだけ平易な今様の表現に置き換えて記述することを試みました。今回はその第1回目です。

明治37年2月14日、盛大な見送りを受けて博多を出発し、鉄道で長崎に向かいます。同16日やはり多くの人たちに見送られて、鎌倉丸に乗船し仁川に向かいます。

明治37年2月14日博多を出発して4月18日水口鎮付近に到着するまでの行程

2月17日:船中においては各自がかくし芸を披露し夜明けまで騒いだ。

2月18日:甲板に上がってみるといつの間にか日清戦争で交戦があった黄海沖も過ぎて仁川港に着こうとしていた。三方は山や丘、一方は仁川居留地、一面の大雪銀世界。船下を望めば敵の軍艦2艘が我が艦隊によって撃沈された様も見えて、自分にとっては愉快快絶であった。(2月9日の仁川沖海戦で仁川港内に逃げ込み自沈した巡洋艦ワリャーグと砲艦コレーツの残骸を目撃したものと思われる。)

2月20日:仁川港上陸。一帯は積雪でその上に韓国人の服装は白地のものばかりなので、真っ白な世界に入り込んだ心地がして興味深かった。

2月21日:午後3時ごろ仁川発の列車に乗車して午後6時ごろ京城に到着した。停車場では、大島大隊長、中村中隊長の出迎えを受け城内に入った。この地で先発隊(臨時派遣隊)と合流したのは意外であった。

2月22日:和城台に集合し、編成替が施行された。自分は固有第2中隊に編入され第8分隊長を申し付けられた。和城台は京城の東南にあって市一帯を眼下に望み景色が美しい。かつて豊臣秀吉の臣下加藤清正の朝鮮征討の際の陣地となった場所と聞いた。

この後は2月28日まで野外演習などを行いながら京城に滞在します。そして、2月29日京城を出発し、高陽、臨津、開城、金州店猪灘、南川店宝山、瑞奨、新院、鳳山、黄州と行軍して、3月12日中和に到着します。

3月12日:午前8時黄州を出発して、午後4時ごろ中和に着いた。中和に近い山の松林中に日清戦役の際、名誉の戦死を遂げた歩兵町口中尉の墓標が建ててあった。また、中和の入り口の山中には騎兵竹内少尉の墓跡が寂しく立っていた。これらを見て涙ぐまない者はいなかった。

3月13日:午前8時中和を立ち、午後2時ごろ大同江の左岸に到着した。驚いたのは大同江、日清の役で聞き及んでいた事は、その幅は何百メートルもあり、渡河は並大抵では無いという事であった。しかし、実際にはそれ程のことはなかった。もっと驚いたことは氷の厚さであった。厚さは60 cm以上はあり、歩兵も砲兵も氷上を苦もなく通過することができた。それから大洞門を通って平壌城内に入った。

大同江の河畔で休憩する第1軍兵士たち(日露戦争PHOTOクロニクル(文生書院 2019)より)
平壌に進軍する第1軍兵士たち(日露戦争PHOTOクロニクル(文生書院 2019)より)

平壌には14日から19日まで野外演習を行うなどして滞在します。その後、20日に平壌を出発し、新茂村、新正原花洞、慈山、順川、安州、嘉山、定州を経由して、連隊は4月4日徒馬洞(チョンマドン)に到着します。

4月5日:当日夕食後、第7分隊とベスボールを楽しんだ。(この時代には「野球」という言葉はまだ一般的ではなかったのでしょう。ソフトボールもまだ日本には伝わっていなかったと思われます。また、「ベース」ではなく長音なしの「ベス」の方がネイティブに近いような気もします。)

4月6日:午前9時30分徒馬洞を出発した。この日の宿営地は雲興館の予定であったが、当地はロシア兵が家屋を破壊してしまっていたので宿泊できず、わずかに後戻りをして巴三里に宿営することになった。当地は青野菜が少ないが、ある山腹に大根が植えてあるのを発見した。そこで、それらを掘り出し、内地においてまるで山海の珍味を食するが如くに食べた。

その後、中隊もしくは小隊は食糧の運搬と護衛のために兵站部のある鉄山、車輩館を往復しながら、新府安上里、採連、枇峴面場里(ヒケンメンバリ)へと移動し、4月15日いよいよ鴨緑江前岸まで進軍していきます。同時により近くにロシア軍の存在を意識し次第に緊張が高まっていきます。

4月17日:当小隊は小哨に任じられる。第1下士哨よりの報告によれば、ロシア軍は当夜小舟に乗って中の島へ上陸の動きありとのことで、小哨は応戦の準備をしていたが敵が前進する気配はなかった。

4月25日:午前8時30分宿営地を発し、約4 km行軍して宿舎に着いた。当地は鴨緑江渡河前の最後の宿舎である。酒を分隊一同へ配った。

4月26日:朝以来どこからともなく砲声が山を貫いて聞こえているが、午後9時より夜間訓練が行われた。

4月27日:午前9時より武装検査が施行された。午後6時30分より架橋材料運搬のため宿舎を出た。約4 km前進して、日没を待って運搬を再開した。河の前岸まで材料の集積が終わって宿舎に戻ると、時間は翌朝の4時40分であった。

4月28日:中隊本部より次の命令が下った。「本日午後12時までに出発できるよう準備を整えておくこと。」この命令によって種々の準備に多忙であった。夜12時整列が終わって中隊長の訓示があった。「本国出発以来長期の行軍をこなしてきたが、待ちに待った鴨緑江の攻撃も目前に迫った。一同東に向かって陛下のご威陵を拝し、また自己の武運長久を祈願せよ。」以上の訓示が終わって出発した。時間は翌29日の午前2時であった。本朝より征露丸を服用した。(当時は正露丸の正を征と書いたようです。)

明治37年4月下旬、祖父が属する第1軍第12師団の位置(12D: 第12師団、GD: 近衛師団、2D: 第2師団)

今回はここまでにします。次回は祖父の24連隊が属する第1軍が主役を演じる鴨緑江の渡河戦から再開することにいたします。

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