祖父の日露戦争陣中日記:(11)奉天近郊興隆屯の戦闘
3月10日:午前4時30分露営地を出発して渾河の左岸に到着すると、敵は我々が前進することを見て取り鉄砲を発射してきた。しかし、我々は「これしき何のその」という意気込みで順に渡河を始めた。敵はこれを妨害しようと激しく銃を乱射してきた。しかし僅か数名の負傷者を生じたのみで対岸に到達できた。午前8時頃から激戦が始まった。中隊は予備として興隆屯に居たが、中隊長は左肩部に盲貫銃創(銃弾が身体を貫かず体内にとどまっている傷)を受けた。我が第8分隊と第7分隊は小隊長随行の上、左翼隊と連絡へ行くことになった。折しも戦闘は益々激しくなっていた。左翼隊に至って連絡の任務を完了した。直ちに戻って中隊と合流すると、前方疣山の敵は抵抗力を失い、白旗を掲げて降伏するものもあり、敗走するものもいる。とても筆舌に尽くすことはできない悲惨な状態であって、その様をよく心に留めおくべきものである。午後2時頃になって戦闘は一時収まった。捕虜130余名はここに置いて隊に集合し、下台東北高地に至って警戒の配備に就いた。大隊長は陛下よりのご勅諭及び旅団長閣下よりの祝文を朗読された。ご勅諭の趣旨はこの度の包囲攻撃がうまくいったことを喜ばしく思われていること、祝文は貴隊の大成功を祝すということであった。中隊は前哨に任ぜられた。(晴天)
<「福岡連隊」の記述> 十日には沙宝屯を出発。先頭は第1大隊、次いで第2大隊、第3大隊の順で一路奉天を目指した。そして第1大隊が渾河の厚い氷を踏んで渡ろうとしたとき、対岸から一斉に銃声が起こった。と同時に、渾河右岸山上からも、砲兵隊による砲弾が24連隊に浴びせられたのだ。敵は、わが軍が渾河を渡る瞬間をとらえて銃砲火を浴びせ、わが軍の注意を、渡河と防戦の二つに分断するのと、氷を打ち砕いで将兵や兵器弾薬を渾河の底に沈めようという作戦らしかった。(この直後の戦闘で、博多出発時に第2中隊長であった、中村一彦少佐が戦死した旨の記述があります。)
3月11日:晴天。午前7時30分前哨を引き揚げ、大隊は下台に集合した。これより護山堡を経て鉄嶺街道上を前進した。午後4時頃遼河に着いた時、以下の情報があった。敵は前方約8 kmのところにある。軍は明日この敵を攻撃するものである。各隊はその準備をして宿営すべし。よって午後7時頃宿営に就いた。同10時頃連絡があった。「明日の攻撃は中止となった。従って明日は武器の手入れ及び身体の保養に勤められたい。」そのため、各自は安楽に睡眠することができた。
3月12日:晴天。柳条河の現地人の家に滞在した。参謀長通報によれば、軍は敵を鉄嶺の以北遠くへ追いやる任を受けた。奉天方面の攻撃の結果は良好である。
3月13日:晴天。午前5時柳条河を出発した。前進中、先頭が近衛師団の先頭とぶつかった。右に寄って前進していたところ、また今度は、第2師団と出会った。仕方なく、第2師団の前進路を行き、午後5時朴家溝高地へ着いた時、前方(第2師団の行った方向)から小銃戦の音がしばらくの間激しく聞こえた。大隊は先の部落の西方にある四家溝に至り、中隊は前哨に任ぜられた。小隊は小河西側高地へ下士哨として派遣され北方の警戒に当たった。夜半より冷気が甚だしく「肌」を裂くような寒さであった。神近という者が薪とりのため約2 kmも離れたところまで苦労を惜しまず行って取ってきてくれた。それで少し暖気を得た。なお、その後堅炭が少量支給された。
3月14日:晴天。午後2時伊家屯(約4 km)まで前哨線を進めた。夕刻になって第3大隊と交代し、我が大隊は四家屯で宿営した。
3月15日:晴天。午前6時宿舎を出て午後2時伊家屯畑地に集合して命令を待った。しばらく前進して畔河(范河のことかも)を渡河し穫家屯に至りここに宿営した。
3月16日:晴天。午前6時出発した。しばらく前進すると鉄嶺の防御陣地が見えてきた。しかし、ここに塹壕など工事の跡はあるが敵兵は一人もいなかった。なお前進を続けた。鉄嶺を左手に見て(破壊された鉄橋があった)、約8 km追撃したところで僅かに銃声が聞こえた。夜になっても銃声は止まなかった。当夜2時ごろ金家塞に至り前哨となり、我が中隊は前哨本体、第1及び第4中隊は前哨を任ぜられた。
3月17日:晴天。午前7時までに出発の準備を終えて命令を待った。午前11時金家塞を出発し、鉄嶺に向けて背進した。午後6時ごろ鉄嶺の西側畑地に到着し、同8時ごろロシア人の建築した家屋に宿営した。鉄嶺は人家が多くあり、西方面にはロシア人が構築した美しい家屋もあり、都会であって市中には兵舎もあった。市街は鉄道に沿って形を成していた。
3月18日:晴天。午前8時鉄嶺を出発し、東南方向へ約20 km行軍して愷陣堡へ到着し宿営した。時刻は午後7時頃であった。
3月19日:晴天。転宿のためこの地を午後4時出発し、東南方向約4 kmの三道溝へ至り宿営した。
投稿記事中の写真は、日露戦争PHOTOクロニクル(澪標の会編、分生書院)のものです。冒頭の写真は「ロシア軍が撤退時に自ら破壊した渾河の鉄橋」。また当時の地図は、参謀本部編纂「日露戦史」デジタル地図(文生書院)から切り出し加工して使用しました。