column#01 出会ったころの蔡さん
蔡國強通信より、蔡さんへインタビュー
日本に来たばかりの時は?
蔡:私自身はごく普通な中国人の学生、青年です。日本語もしゃべれなくて。日本に行く前から銀座には千軒のギャラリーがあると聞いた。千軒もあるならチャンス千回もあると思ったですね。来日するときは絵をたくさん持っていった。キャンバスの絵とか水彩画とか油絵ね。学生の時はいっぱい風景絵画も人物絵画も描いたですよ。全部キャンバスから木枠取って巻いて日本に持っていった。そして銀座の画廊に一軒一軒持って行くとほとんどオープンしてはダメと言われて、もう見る時間ないから。あなたみたいな学生いっぱいあり過ぎると。びっくりしましたが、そんなに簡単ではないと分かったです。結局千軒もあって千のチャンスがあるけど、見てくれなかったらチャンスない。結局0と同じ。そういうこと分かった。
街の画廊がなかなかチャンスくれないので、美術館行ってももっと難しいですから。田舎行ったらよくなるんじゃないか。それは思想につながるんですよ。街から革命できないなら、田舎で人々と対話して力をつけて田舎から育ててきてやがて街に入ること、街を包囲して街に入ること、そういう毛沢東的な思想を・・・私たちは文化大革命時代に教育を受けましたから、毛沢東のことを自分なりの方法論になった。
蔡さんが住んでいた家の上空から太平洋を臨む
ちょうどいわきの、友だちの紹介でね、鷹見さんという批評家の紹介で・・・彼のお父さんはいわきの工場長でね、いわきの人が画廊を経営していてね、鷹見さんと藤田さんが知り合って・・・また藤田さんが東京に来て私と会ったですよ。藤田さん私の絵見たら面白い、じゃあ是非いわきに遊びに来てください。来たら絵をいわきのいろんな人に見せて。
いわきの人は私に懐かしさとか新しさを感じて親切にしてくれたですよ。外国のアーティストと会うこと、チャンスが少ないこともあって、私自身日本語少ししゃべれて、人と会いやすい人間ですからね。みんなすぐ親しい友だちになって、よくいわきに遊びに行って展覧会やってたですよ。最初は日本円で千円から始めてね、一点千円で、高いと10万円もして、そういうことを展覧会のとき70~100点売れますね。でも千円ですから、額縁もあるから実際のもうけは数百円ですけど。でもとても自信持って、生きられる自信になったですよ。
いわき市立美術館で個展開催が決まった時の心境は?
蔡:いわきにいろいろ行って、いわき市立美術館が結構日本では現代美術館やってる美術館です。平野さんが私と時々会ってね、すごい計画ですけど、私のワンマンショー(個展)やろうと考えたですよ。私の初めての美術館でのワンマンショーですから、いわき市立美術館は現代美術よくやってる美術館ですから、自分にとってはうれしかったです。
ただし、予算は非常に少なかったです。多分300万円です。私は来年2月にグッゲンハイムでやるとき、NYのグッゲンハイム美術館だけで3億円以上ですね。回顧展ですけど。でもそのときは300万円でした。普通絵描きならば300万円でもできるですよ。絵を飾ってね、カタログ作ったり、開会式(?)やったりできますけど、私自身は大きいことやること好きだから(笑)。だから300万円だけどどうしようか、と。でもいわきには友だちいっぱいいますから。みなさん美術にあまり興味がなくて、美術館に行かない人ばかりですよ。
でもその方たち私のこと、好きで私のアートも理解してくれる方です。そういう自分のベース、基礎ですから、だから力は300万円を十分超えて、力持っていた。毛沢東みたい延安みたい、本拠地ですよ。その本拠地で戦うならいくらでも力あると自信を持てた。
その時のコンセプトは・・・まだ取手に住んでいました。じゃあいわきに住むようにしましょう。海のね、高台の一軒家を借りて、そこで作品を発生しよう。そこの素材を使ってそこの土地で作品を植えて育てると、そこの人々と一緒に作れば安く作れます。アイデアもない、作品もなし、ただ一人だけで電車に乗ってそこに行って始めた。
家主へのお礼として蔡氏が描いた絵
実行会が借り、蔡氏が住んでいた家
菊苗を植えるため庭を耕す志賀武美さん