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1.少年時代

・3才: 父母と共に田畑ですごす

父母が農作業を営むかたわらが、私の遊び場だった。田んぼでの作業の時は、魚とり、ザリガニ取り、いなご取り等、山仕事の時は、栗拾いやゆり根掘り等、食べれるものをとるのが楽しみだった。秋の稲の刈り入れ時両親の働く近くで稲束を重ねて作った四角いあたたかい空間で昼寝をしていた時の心地良さを良く想い出す。

・4才: わらしべ長者

私は父と母の間に寝ていた。眠りにつく前に、父の話を聞くのが楽しみだった。父の持ちネタは少なく2つか3つぐらいしかなかった。その中でも何度も好んで聞いたのが「むかし、むかし、道にネズミが死んでいました、そのネズミを子供が拾って歩いていると・・・」で、始まるわらしべ長者風の話だった。この話を聞くとみょうに気持ちがわくわくしてくるのだった。

話しの筋書きは完全には思い出せないが、こんなふうだったと思う。目の前にある、自分に不必要なものでも、人がかわり、場所がかわると大変貴重な物となる事の例え話しだったと思う。
 
何年か前、80歳を越えた今でも元気な父に、その話しの筋書きを聞いたところ「そんな話し、したかなー」とすっかり忘れているようだった。子供の頃を思い出す時、自分の子供にはこんな風に話してあげなかった事を悔やんでしまう、ちょっと寂しくて切ない思い出である。

・5才:はじめての訪問販売

1yousyou-0.15歳

そのころ農家には、行商の人や、物乞いの人がよく来た。
来る者は拒まずで母は、来客者を歓迎した。ある時、包丁を売りに来た行商人が居心地の良さか、囲炉裏端でお茶を飲み始め商売を忘れたかのようだった。私は心配し「俺一人で売ってきてあげる」と言い出し、値段を聞いて隣近所へ販売に出かけた。

隣近所の付き合いもあり、3軒の家で、合計5本も買ってくれた。得意になって帰った私に、行商人は本当に喜んでくれ小遣いをくれた。この時の嬉しさが、後々の物を売る行為を職業とする、要素の一つになったのはまちがいない。


・小学1年:運動会、予行演習では1等賞

小学校1年運動会の予行演習、種目は10m位走って行って、手作りのお手玉を1つ頭にのせ、2つを両手に持って20m位走ったところがゴールというもの、前のグループの様子を見ていると、頭にのせたお手玉がよく落ちるのに気がついた。
「あの頭にのせたお手玉が落ちなければ、早くゴールにつけるのに」と思った。よく見ると手製のお手玉には、柔らかいのと、かたいのとある。私のグループの順番がきた、私は走るのは決して速くなかった、お手玉の置いてある場所についた時の順位は、中間より少し後ろだった。

あわてずお手玉を3つ4つ触って一番柔らかいのを探し出し頭にのせた、あとはゴールめざして一直線。堅いお手玉を落としたり、落としそうになりながらの、足の速い人をごぼう抜き、みごと一等賞でゴールイン。ちなみに本番では予行演習での私の様子を見てまねをする、足の速い人もいて、残念ながら、賞に入れずじまいだった。でも、なにかポイントを見つけ。実行して結果を見る喜びを味わう事ができた。それと同時に、アイデア勝負は1回きりだという事も感じたの だった。

・小学2年:「エビガニ」の味は・・・

私の実家は2町歩程の稲作をしていた、初夏の田植えの後の草取りがはじまる頃だった。
六反田という地名の田の近くに直径5~6m位の沼があった。この沼は脇には小川が流 れており、一部は川とつながっていたので魚やエビガ二がたくさん住み着いていた。両親が近くの田の草取りをしている間、私はこの沼でよくエビガニ釣りをして楽しんだ。エビガニを釣るためには紡績糸があればよかった。
沼の回りにはえている柳の木をおり、釣り竿にする。その先端に糸をしばる。あとは餌だ。
これはカエルを使った、この季節カエルはどこにでもおり、沼の渕を注意してみるとすぐ見つける事ができた。できるだけカエルの近くまで手をゆっくり近付け20cmぐらいに近付けたらすばやくパッとつかんでしまう。

こうしてつかんだカエルを地面にたたきつける、死んだカエルの足指を引き裂いてそこから体全体の皮をむいてしまう、今考えるとあまり気持ち良いものではないが、当時は何とも考えず皮をむく事ができた。皮をむくだけではエサとするには不十分で、さらに腹を破り内臓を引っ張り出すのだ。皮をむかれ内臓の出たカエルがエビガ二を釣るには一番良いエサだった。これを先程の糸の先にしばり沼の水にたらす。

あっと言う間にエビガ二が寄って来る。エビガ二がカエルの死体にハサミを立て小さな足でつかまるのを見計らってゆっくり上げるのだ。問題はエビガ二が水から空気中に出る瞬間だった。ここで半分以上エビガ二はエサから手を離してしまうのだった。

工夫の好きな私は家の台所から米をとぐザルを持ち出した。右手で竿を手前に近付け、左手で持ったザルでエビガ二を水の中ですくうやり方を実行すると、おもしろいように取れた。私は取り逃がしたエビガ二が他のエビガ二に釣りをしているのを伝えられてないかと本気で心配したりした。釣り落としがなくなったので余計に釣れたと思った。

両親が田の草取りを終わる夕方頃までには、小さなバケツはほとんど満杯になっていた。
釣ったほとんどのエビガ二は赤く体も大きかった。うまそうだったがエビガ二を食べる習慣は無く、うまいかどうか誰も知らなかった。夕方、両親と家へ帰り捕ったエビガ二を食べてみようと言う事になった。一部を残しほとんどを茹でて食べてみる。真っ赤に茹で上がったエビガ二は身もしまっておりうまかった。残った大きめのエビガ二で天丼を作ってもらった。

これも絶品だった、今から40年以上も前、今のようにエビを食べる事など出来ず、エビガ二で作った天丼はごちそうだった。エビガ二の殻はニワトリの餌として与えた、その餌を食べたにわとりの生んだ卵の黄身はオレンジ色をしておりみるからに栄養がありそうだった。
あれから40年位たった今、川や沼はあるが、採った魚を食べられる環境ではなくなってしまった。

魚採り等をする子供もいない。テレビの前に座りゲームに熱中する子供を見る時、エビガ二取りの思い出が生々しくよみがえり、胸の奥がキューンとなるのは年のせいだけなのだろうか? 自分も参加して作った今の社会に対する疑問なのか、考えさせられてしまう思い出である。


・小学4年:小遣い稼ぎは「どじょう捕り」
 

秋の台風シーズン。大雨が降ると、田の中を流れる2~3m幅の農業用排水路は石橋の上まで水がかぶる。これを見ると嬉しくて興奮し、すくい網を持って橋の上に出かけた。網を橋の上につけて、水の流れで流されないように、縦に差し入れて待つ事2~3分、網を上げると両手一杯程の「どじょう」が捕れる。

田や川で育ったどじょうが大雨で流されるのだろう。タイミングが良いと、どこの家にもあった小さなブリキバケツに一杯程捕れた。捕れたどじょうは、「みそ部屋」と呼ばれる漬物や味噌などを保管しておく場所の木の樽へ貯めておく。何日かおきに樽の中の井戸水を換え、どじょうの餌には大豆を少し入れておく。こうして貯めたどじょうを市場へ持っていってもらい、小遣いを稼いだ。

今でも大雨が降り増水すると不謹慎にも「どじょうはとれないかな」と一番に思ってしまう。


・小学5年 父の教育方針

私は父より、「勉強するようにとか、何をしてはだめ」とか、言われた記憶がない。小学5年の頃だと思うが、忍者ブームがあった。家の土間で近所の友人と、座がねを金づちでたたいて手裏剣を作っている所へ父が帰って来た。

私は、父から「危ないからそんな物で遊んではいけない」と言われるものと思っていた。ところが意外にも、父から出た言葉は「たたいて伸ばしただけでは堅くないので、すぐ曲がってしまうぞ、焼き入れした方が、よくささるぞ」だった。その時、父は七輪に炭を起こしてくれ、私が作った手裏剣を真っ赤に焼き、ジュ!と水に入れてくれた。

父は農作業の途中にもかかわらず、1時間位の時間を子供の遊びに付き合ってくれた。最後に、「これだけ鋭いと人に当たったら大けがするぞ、人のいる方に向けて投げたら危ないぞ」とだけ言われた。

今になって考えるとなかなか出来ない教育の仕方で、ありがたい事と感謝すると同時に、尊敬してしまう出来事だった。


1yousyu-02.小学5年ひばり

中3のころヒバリに餌づけし呼ぶと戻って来るまでになりました


・高校3年:進路定まらず

勉強しないで過ごした高校3年も残り少なくなった頃、大学進学のための準備は大詰め。東北工業大学の推薦入学願書締めきり3日前、私の希望は土木科だった。翌日には、電気通信科に変更。最終日には、建築科へ――とめまぐるしく変わった、締め切り日まで時間があれば、まだ変わったかもしれない。

まだまだ、この先、何をしたいのかは、決まっていなかった。「大学行くのやめようかな」と父に話すと、「行かなくても問題はないが、今後やってあげられるのは、大学へ行く資金援助ぐらいだ」との一言で、大学進学を決心した。

推選入学を受験して12月7日、高校で一番最初に合格が決定した。その後、高校卒業までの時間、アルバイトにあけくれ、大多数の生徒が味わう大学入学のための受験勉強を味わう事はなかった。

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