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「Mank」観賞

Netflixにて『Mank』(マンク)観賞。
これはシナリオライターが主人公という、珍しい映画である。小説家が主役という映画はあるが、脚本家が主役というのは、どうだろう?ぼくは聞いたことがない。
監督がデビッド・フィンチャーであるということと、『市民ケーン』が題材となっているということ以外、ほとんど予備知識なしに観たのだが、話題となっている撮影方法だけでなく、その語り口までもがオールド・ファッションなハリウッド映画、すなわち『市民ケーン』によって一変したといわれる映画文法ーしかし、それはどんどんアップデートされ、もはや古典となってしまったーに則った映画であることに、興味を覚えた。

聞けばこの映画の脚本はデビッド・フィンチャーの父親、ジャック・フィンチャーの書いたものということだ。そのジャック・フィンチャーという人はどんな脚本を書いたのか、Wikiで調べてみたけれど、『アビエイター』の元ネタになるものを書いたということだが、ほかにぼくの知る映画はなかった。ただ、元々ジャーナリストとして活動していたということが気になる。
『マンク』の主人公、ハーマン・マンキウィッツは脚本家としてハリウッドに来る前には、ニューヨークでジャーナリストとして働いていたという。そして『マンク』には、ジャーナリスト的な観察眼で『市民ケーン』の脚本を書き上げていくハーマンの姿が活写されている。ジャック・フィンチャーは自分とよく似た男の姿をハーマンに見たのではないか、とも思う。
『マンク』の構成は、『市民ケーン』のそれと似ている。『市民ケーン』では、新聞記者が死んだ新聞王・ケーンの人生を取材する形で進む。一方『マンク』では、ジャーナリスト出身のハーマンが『市民ケーン』の脚本を執筆する中で、友人でもあった新聞王ハーストをモデルにした経緯が語られる。
どちらもカットバックで(『マンク』では"flashback"と書かれる)、過去のエピソードの積み重ねがドラマを形づくっていく。このような構成は、今では古典的な手法だが、ほぼ『市民ケーン』によって発明されたものだと思う。つまり、この映画は、撮影技術だけでなく、ドラマツルギーも『市民ケーン』のそれを意識的に転用して作られた、メイキング・オブ『市民ケーン』なのではないか。そんな気がした。
この『マンク』、映像についてはあちこちで話題になっているとおりだが、音声にもずいぶんこだわっていて、まずモノラルであることに驚いた。
そして、スタジオの「箱鳴り」のナチュラル・リバーブがセットからロケ・シーンまでつけられている。尤もあの映像でドルビーとかでは、かえって違和感が倍増するのかも知れないが。
有名な「バラのつぼみ」に関する言及や、ルイス・メイヤーのクソっぷり、現在も変わらない政治によるメディア利用など、エピソードには事欠かず、また(ほぼ軟禁状態で)執筆するハーマンと周囲の人間との交流などもそつなく描かれているのだが、どうも首をひねらざるを得なかったのはクライマックスのハーマンとハーストの対決がダイアログ主体となってしまったことだ。それも『市民ケーン』のドラマツルギーなのだといえばその通りだけど(ちなみに、このパーティー・シーンの撮影も素晴らしい)、アクションがドラマを作っていくデビッド・フィンチャーの映画としては、ちょっと物足りなく感じてしまう。総じて、方法論がドラマを枷にはめてしまったようで、現代にコミットするものとまではなっていないような、もどかしさを感じたのである。

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(画像は映画ドットコムより拝借)



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