『そのとき』のはなし
紫の光を見たわたしは「あ、光だ」という小学生でも思いつきそうな感想しか思い浮かべられなかった。
だって、それが精一杯。次の感想を抱く前にもうわたしは『思考ができるモノ』ではなくなっていたから。
最寄りの避難所あるいは地下への避難指示が出されたものの、交通規制や道に溢れかえる人で「はい急いで避難しましょう走りましょう」なんてことは到底できない状態だった。
わたしは少しだけ「会社に残っていたほうがまだマシだったのでは」と考えたりした。人混みはあまり好きじゃない。会社も避難先も大差無い、他の社員がいない隙に地階の倉庫に逃げ込もうと粘っていたのに、上司に逃げろと追い出された。その上司はわたしと一緒に社屋から飛び出した後一目散に走り去っていったから、もうどこに行ったかは知らない。
そして勢いに乗り遅れたわたしは、逃げようにもごった返す人混みに揉まれて思うように進めずに疲弊して、歩道の端で立ち止まってしまった。
鞄からスマートフォンを取り出すと、充電があまり残っていないことを示す赤色のマークが表示されていた。わたしは同じく鞄に入れているモバイルバッテリーを取り出す。いや、正確には「取り出そうとした」だ。
「……あれ、無い」
こんな時に限って家に忘れてきてしまうなんて。そうだった思い出した、寝ている間に充電しようと思ってコードを繋げて、朝そのことを思い出さずに家を出たんだった。きっと今、誰もいない暗い部屋の中で充電完了を示すランプが小さく光っている。なんて哀れなモバイルバッテリー。そして同じく哀れなのはバッテリーが危ういわたしのスマートフォン。
「参ったなぁ……どうにか保ってくれるといいんだけど」
無意識に呟いたけど、どこまでスマートフォンが保てばいいのか、今思い返してもわからない。避難所? 自宅? それとも?
これも無意識だったのか、スマートフォンのロックを解除して、通話履歴を表示していた。履歴の一番上にある四文字、「安田くん」。
今だから言える話だけれど、本当はわたしは少し迷ったのだ。一般人がこんなにパニックになって逃げ惑うレベルなのだから、政府の大事なチームの中にいる彼はもっと大変な現場に身を置いているのではないか。そんな戦場のような場所に、戦う戦士に電話なんかかけていいのだろうか。迷惑ではないだろうか。
でもやはり無意識に身体は動く。渦巻く感情を無視するように、わたしは彼の番号に発信していた。
無機質なコール音。呼応するようにわたしの心臓も鼓動する。
数コール後に機械的な女性の声が聞こえた。
『ただいま電話に出ることができません』
「やっぱりね」
電話したところで忙しくて出られる訳もないのだ。わたしって少しバカかも、と自嘲しながら発信を切った。
「ちょっと君! 何をしているんだ、早く地下へ! あの角を左に曲がればメトロへの階段だ!」
立ち止まったままのわたしを不審に思ったのか、目の前を走り抜けていったサラリーマン風の男性がわざわざ引き返してそう言ってきた。彼はそれだけ言うとまた走って去っていった。
お礼言えなかったなぁ。通勤に使わない交通機関だ、沢山ある地下鉄への入り口がどこにあるなんて把握してないわたしを助けようとしたんだろう、あの男性は。
親切を無下にするわけにもいかないので、スマートフォンを鞄にしまい、わたしもそちらの方向に走ろうとした。
その時だった。
背後で「なにか」が明るく光っている。地面にわたしの影が伸びる。
振り向くと、暗闇に浮かぶ紫色。
光。ひかり。紫の光。
光に見とれてしまったのか、光がわたしの思考を奪ったのか、それはもうわからない。
最期に聞こえたのは生物の咆哮。
紫の光が死の世界を連れてきた。
2018.10.11(2018.12.10 再掲) 神無瑠唯
#安田短歌展2018 出展作品